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炭鉱遺産
日本の戦後の経済復興を支えたのは、石炭のエネルギーでした。北海道は九州と並ぶ大産炭地で、戦後は九州を追い抜いて、国内最大の生産量を上げています。石炭はまさしく、 諸産業を支える動力源として、力強く日本の経済を牽引してゆきました。
しかし、やがて石炭から石油へのエネルギー革命が始まると、石炭産業は急速に斜陽化してゆきます。いまでは、北海道の坑内掘りの炭鉱はすべて閉山し、露 天掘りの小さな炭鉱がいくつか残っているに過ぎません。
■「石炭の歴史村」にある「石炭博物館」
当時の坑内での作業を再現した展示。
かつて賑わった炭鉱街からは人が消 え、炭鉱遺産はしだいに姿を消しつつありますが、それを保存しようという動きも起きています。北海道の石炭産業の全容を知るには、手始めに夕張(ゆうばり)市の「石炭の歴史村」を訪れるとよいでしょう。
石炭 の歴史村
北海道初の私企業による発電所として、建造されました。夕張川上流に築いた取水堰堤から水を引き、軸長18メートルの大水車2基で発電します。赤煉瓦の壁 と正面アーチ窓が調和した、風格のある建物です。北炭が夕張での炭鉱事業から撤退してからは北海道に譲渡され、いまも現役の水力発電所として稼働していま す。
■北炭滝之上水力発電所
1924 (大正13)年、北海道炭礦汽が採炭電化のために建設。
(写真提供:空知支庁)
炭鉱の多くでは、役員の交歓、来賓の接待用として、「倶楽部」が建築されました。そのなかで、この鹿ノ谷倶楽部はもっとも規模が大きく、ぜいたくな建物です。本館・別館を合わせて、部屋数は30室以上にのぼります。閉山後は、夕張市が取得して整備し、一般に公開しています。
夕張鹿鳴館
■北炭鹿ノ谷倶楽部(現・夕張鹿鳴館)
1913 (大正2)年に建築。かつて昭和天皇が宿泊したこともある。
(写 真提供:空知支庁)
櫓(やぐら)の高さは約51メートルで、現存する立坑櫓では国内一の高さといわれます。原炭ポケット、選炭工場の一部、精炭工場の一部、精炭積込ポケッ ト、人車斜坑入口など、東洋一を誇ったといわれる石炭生産システムの全容が残されています。立坑とは垂直に掘り下げた坑道のことですが、ここでは人員、資材、石炭を併行して昇降させる最先端のシステムが採用されていました。
旧住友奔別炭鉱
■住友奔別炭鉱立坑櫓
1960 (昭和35)年に造られた立坑。石炭の生産システムがセットで残る貴重な施設。
(写真提供:空知支庁)
炭鉱の街が栄えたころ、いちばんの娯楽は映画でした。多くの炭鉱町に映画館が建てられましたが、この互楽館はそのなかで最大のものです。立ち見席も含めて、1,477名を収容できました。椅子席の下にパイプを通し、蒸気で暖房するなど、最新の設備も取り入れられています。映画館では映画が上映されるだけではなく、一流の芸能人たちがショーをくりひろげました。
■三井美唄炭鉱互楽館
1955 (昭和30)年建築。現在は倉庫として使用中。
(写真提供:空知支庁)
住友赤平炭鉱は、住友が戦後の復興期に、技術と資本の総力を結集した炭鉱として知られます。この立坑櫓は、その中心となる施設で、東洋一の立坑と称賛され ました。立坑櫓に隣接する事務室には、坑内図や経営資料が保管されており、炭鉱の往時を伝える貴重な資料となっています。
旧住友石炭赤平炭砿第一立坑
■住友赤平炭鉱立坑櫓
1963 (昭和38)年、総費用約20億円をかけて建設された立坑。
(写真提供:空知支庁)
■クラウス15号蒸気機関車
1889 (明治22)年にドイツのクラウス社で製造された機関車。1931(昭和6)年から留萌鉄道を走った。
(写 真提供:空知支 庁)
選炭場に運び込まれた石炭は、選別された後、貨車に積み込まれ、遠くへ運ばれてゆきました。その運搬を担ったのが、蒸気機関車です。このクラウス15号 は、沼田町の昭和炭鉱で働いた機関車で、大きさは小型トラックほどしかありません。しかし、その力は強く、10〜15トンの石炭を積んだ台車を何台も引いて、留萌(るもい)鉄道の恵比島(えびしま)駅との間を往復しました。いまは、沼田町のふるさと資料館で、その姿を見ることができます。
■「明日萌駅」
恵 比島駅で、NHKの連続テレビドラマ「すずらん」の撮影が行われたときのセット。
[伝統・文化]交通遺産
● 北海道空知支庁
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