北海道デジタル図鑑
データベース検索 情報の小径 50音インデックス サイトマップ ヘルプ ホーム

自然歴史伝統・文化観光・スポーツ
本サイトのご利用にあたって
100の物語[歴史] 松前城

激動の時代の舞台となった、松前藩と松前城
 北海道では米が穫れないため、松前藩の財政はアイヌとの交易で賄われました。
 交易の場となったのは、アイヌ民族の住居地である蝦夷地内に設けられた商場です。この商場の持ち主は、藩主のほかは上級家臣であり、交易権が本州での領地に代わるものとして与えられたのです。
 18世紀初頭になると、商場の知行主が、アイヌの人びととの交易を商人に委託し、その代わりに運上金を納めさせる場所請負制が始まりました。やがて、場所請負人たちはアイヌをの人びとを雇い、自分たちの近代的な漁法で漁をさせるようになります。漁期になると、アイヌの人びとは河口の運上屋に集められ、和人の番人の下に漁を行いました。
 こうして場所請負人たちは、昔のように交易しなくても、必要な水産物を手に入れられるようになります。しかし、それは一方で、アイヌの人びとを使用人化してゆく過程でした。
松前城イメージ
関連するデータベース
アイヌ民族と和人の最後の戦い/クナシリ・メナシの戦い
 場所請負制度のもとで、多くのアイヌが酷使され、しいたげられる事態がおきてきました。そのような場所請負人たちの不正なやり方に対して、1789(天明9)年にクナシリ島と、メナシ地方(現在の根室支庁管内目梨群)のアイヌの人びとが立ち上がりました。これを「クナシリ・メナシの戦い」といいます。
 しかし戦いは組織だったものではなかったため、長続きしませんでした。結局、長老たちの説得により、松前藩と一戦を交えることなく降伏しました。
 この戦いを収めた長老たちは、その後松前藩に招かれます。その時に松前藩の蠣崎波響(かきざき・はきょう)が描いた長老たちの肖像画「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」が、いまも残っています。
「夷酋列像 イコトイ」
■「夷酋列像 イコトイ」
アッケシ長老イコトイの図。
「ションコ」
■「ションコ」
(写真提供:市立函館図書館)
※目録名は「御味方蝦夷之図」
海からの攻撃に備える/松前城
 幕末の1849(嘉永2)年、幕府は蝦夷地警備のため、松前藩に築城を命じました。当時は新しい城を造ることを全国的に禁止していたため、これはきわめて異例なことです。藩主の松前崇広は、6年がかりで福山館(ふくやまだて)の修築を重ね、1854(安政元)年に松前城が完成しました。松前城は、わが国でいちばん最後に建てられた日本式城郭です。
 軍学者・市川一学(いちかわ・いちがく)の設計で、本丸・二の丸・三の丸からなり、本丸東南隅には三層の天守が築かれました。三の丸には海に向けて7基の砲台が置かれ、城外にも9砲台25門の大砲が配備されていることから、海からの攻撃への備えを重視したことがわかります。城を持つことは、松前藩にとっては名誉なことでしたが、その築城費15万両は藩財政に重い負担となりました。
松前藩主・松前崇広(まつまえ・たかひろ)
■松前藩主・松前崇広(まつまえ・たかひろ)
1864(元治元)年のころの17代目藩主・崇広(写真提供:松前町郷土資料館)
市街からみた松前城
■市街からみた松前城
1867(慶応3)年の松前城。(写真提供:市立函館図書館)
城の炎上とともに松前藩は滅んだ/箱館戦争
 明治維新後の激動期、松前藩は旧幕府側軍と官軍の両方と連絡をとり、事態の進展をうかがっていました。これに対して、下層青年藩士たちが反発し、「正議士」というグループが結成されます。彼らは勤王を掲げて決起し、1868(慶応4)年4月にクーデターを敢行しました。このとき、幕府寄りの重役たちが殺害され、正議士が藩政の中心を握ります。
 しかし、それも長くは続きませんでした。10月には、榎本武揚(えのもと・たけあき)らの旧幕府軍が進攻してきて、正議士の率いる松前藩兵は抵抗しきれず、やがて城下を焼き払って江差へ逃げます。そして、藩主の徳広は漁船で津軽に逃れ、まもなく死亡しました。松前城は築城後わずか13年で炎上し、それとともに松前藩も実質的に滅んだのです。
「箱館大戦争之図」
■「箱館大戦争之図」
榎本武揚(釜次郎)、新選組副長だった土方歳三らが奮戦しているようすが描かれている。
■11月5日の攻防戦(「麦叢録付録図」より)旧幕府軍に海と陸から猛攻撃される松前城。 11月5日の攻防戦(「麦叢録付録図」より)
(写真提供:市立函館図書館)
関連する100の物語
関連リンク
画像および文章の無断使用・複製・再配布を禁じます。


参考文献一覧画像提供元一覧情報の小径50音INDEXページのトップへホーム