第19回 「馬角斉」のこと

おまえのかあちゃんデ~ベ~ソ!

第19回 「馬角斉」のこと

 松浦武四郎は、晩年になって「馬角斉」という雅号を使った。彼は和歌をたしなんだが、この時代の知識人にとってそれは教養のひとつだったのだろう。十勝地方を開拓した晩成社代表・依田勉三にもいくつか秀歌がある。
 教養のことはともかく、晩年の武四郎はなにゆえ「馬角斉」などという号を使ったのか。「ばかくさい」は、言うまでもなく馬鹿馬鹿しいという意味のそれに違いないが、単純なユーモアからだけの命名だったと私は考えない。彼の生涯の趣味は篆刻(てんこく)だったが、その趣味のためということでもなかったはずだ。
 本当に彼は世の中のことが「バカ臭く」なったのではなかったか。わけても、権力のバカバカしさ。権力=明治政府への暗黙の批判、それが「馬角斉」に込められた武四郎の意志であったのではあるまいか。

2011年10月9日の東京スカイツリー 写真:和多田進

2011年10月9日の東京スカイツリー

 武四郎は、明治政府から開拓使判官に任命されて蝦夷地の踏査・探険に臨んだが、この役職は開拓使長官、開拓使次官に次ぐ地位である。要するに、武四郎はとんでもなく「偉い」官吏であった。そして、そのとんでもなく「偉い」武四郎の北海道踏査は、当時の北海道原住民・アイヌの全面援助によった。武四郎は現場で世話になったアイヌを尊敬の心でつきあった。探険でアイヌと寝食を供にし、援助を仰いだ彼にしてみれば、それはまことに当然のことだったろう。
 しかし、政府および一般「白人」のアイヌに対するそれは武四郎とは真逆だった。なにしろ、開拓判官に登用される際、武四郎は明治政府に役所を引き受ける条件を出した。オカミを恐れぬそういう発想、行動自体が異例であるけれど――。
 蝦夷地の支配権をふたたび松前藩にゆだねぬこと、アイヌを食いものにする非道な商人を排除すること、それが武四郎が明治政府につきつけた条件であった。
 もちろん、この条件が満たされることはなかった。事情はいまもむかしも変わらない。そのうえ、現代に「馬角斉」は不在であるらしい。

プロフィール

和多田 進(わただ すすむ)

ジャーナリスト、編集者。1945年北海道生まれ。1976年晩聲社創立。『週刊金曜日』初代編集長兼社長。月刊誌「CHAI」編集長。荒木経惟「日本人ノ顔」プロジェクト代表。日本聞き書き学会理事。著書に『生きてるうちが花なのよ 編集現場で考える』(晩聲社)、『横撮り』(バジリコ)、『ドキュメント帝銀事件』『Story A 天才アラーキーの撮影現場』(いずれも新風舎文庫)など多数。

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