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小樽に「北のくらし」をたずねて
文・写真/及川直也
▲創業107年の老舗「新海金物店」
小樽市中心街を東西にアーケードが伸びる「サンモール1番街」。幅約11メートルという広い通りには現在、飲食や衣料品店など12店ほどが営業している。2005年に115年の歴史に幕を閉じた旧丸井今井小樽店の正面で、一世紀以上にわたって営業をつづけているのが「新海金物店」(稲穂1)だ。
同店の創業は1905(明治38)年。初代は山梨県から来道し、他店で修行したのち、この地で独立したという。家庭用品からプロの調理人まで対応する、老舗金物店として地元の信頼を集めている。
「私が物心ついたころ、この周辺は小樽でも一番の繁華街でした。ウチの前に丸井さん、(旧)グランドホテルの脇に『ニューギンザデパート』、いまのオーセントホテルのところに『大國屋デパート』があって、その城下町のように商店街が広がっていました」
と語るのは、同店相談役の新海貴美子さん(60)。この商店街で生まれ育ち、マチの盛衰を直に見てきた"歴史の証人"である。
▲「今までのお客さんを大事にしながら、時代と共に扱う商品も変えていく。同じことしていたら続きませんよ」
「祖母からよく明治時代の話を聞きましたが、店は最初、暖房器具の販売からはじまったそうです。5、6人の若い住み込み従業員たちが、夜中まで鋳物のストーブを担いで配 達したという。売れば儲かった時代ですから、それだけ需要があったということでしょうね」
本道への物資輸送が船中心であった昭和初期まで、小樽はモノとカネが行き交う拠点として栄え、「北のウォール街」と呼ばれていた。幌内の石炭、樺太で生産された木材や鉱物、海産物などは小樽港に集約され、本州などへと送られた。また逆に、米や味噌、日常の生活用品などは本州から船で小樽へ運ばれた。
「今みたいに、蛇口ひねればお湯が出るような時代ではありませんからね。井戸から水をくんで、薪や石炭を焚いてお湯を沸かすというような時代だった。本州の生活と比べれば、ここで住むこと自体が、想像を絶する厳しいことだったと思います」(新海さん)
新天地・北海道で生きる人々の、炊事や洗濯、掃除、除雪といった生活の基本にかかわる、さまざまな「道具」を揃える金物店は、モノがあふれる現代では想像がつかないほど 重要な存在であった。
▲店頭で巨大な鍋やヤカンが目を引く「新海金物店」
店頭で目を引く、巨大なやかんやフライパンを通り抜け、明るい店内を見渡す。意外なことに、雑多な商品が積み上げられた「昔の金物屋さん」のイメージはなく、実用的な商品が整然とレイアウトされていることに気付く。
「小樽はお寿司屋さんも多く、業務用の道具を帳面づけで買うお客さんも沢山いますが、同時に現金のお客さんの裾野を広げていくことも大切だと思っています。特にこれからはIH(電磁)クッキングヒーターがメインになりますから、それに合わせて鍋やフライパンも全部変わっていきます。今までのお客さんを大事にしながら、時代とともに扱う商品も変えていく。同じことしていたらつづきませんよ」(新海さん)
▲時代はIHヒーターへと転換している
昭和30年代に書かれた、ある業界団体の記念史に、明治期の小樽の商人について「小樽商人はものごとにたいして進取の気象にとみ、果断で磊落な性質をもっている。また、小樽商人は信用を重んじ、共同の精神にとんでいることは、全国でもめずらしいくらいである。しかも義侠心にとみ、倒産しようとしている店があると同業者たちはおたがいに助けあうという美風がある」と書いてあった。時代の流れを鋭敏に読み、新たなものに挑戦する「進取の気象」はもちろん、一時廃業の危機が伝えられた同店を、地元青年会議所メンバーの協力で老舗ののれんを守ることになったというエピソードも、小樽商人に深く刻み込まれたDNAがそうさせたのではないかという気がしてくる。
明治から大正、昭和、そして平成へ。時代や街並みは変わりつづけることだろうが、小樽の変わらぬ「商人気質」が、これからもマチを支えていくのである。
■新海金物店 小樽市稲穂1丁目3-5
TEL:0134-33-4649
▲小樽の暮らしについて語ってくれた蓮野祐子さん(写真左)、金子昌子さん、石川いゑさん
古き良き生活の匂いが失われようとしている現代。小樽に長年暮らす女性たち集まってもらい、「北のくらし」について振り返ってもらった。
・石川いゑさん(90)ちぎり絵講師
・金子昌子さん(74)
・蓮野祐子さん(70)
●石炭ストーブ
「昔の北海道の生活? まずは暖房から違うわね。燃料にも種類があって、薪ストーブでしょ、それから石炭でも、塊炭(かいたん)、粉炭(ふんたん)があった」(蓮野さん)
戦前までの木造住宅は一重窓で断熱材も入っておらず、すきま風が吹き込んでいた。「吹雪の明けた朝、枕元に雪が積もっていた」という笑い話が聞かれるのもこのころである。すきま風の通る機密性の低い部屋を、薪や石炭ストーブで強力に暖めるのが当時のやり方であった。
石炭は秋に一冬分を買い込んで物置に貯蔵し、使う時に少しずつ家に運び入れる。家庭用として一般的に使用されていたのは粉炭だが、燃焼カロリーの高い塊炭(かいたん)も、細かく砕いてストーブに使われていた。
ストーブの形にも様々あり、北海道で代表的だったのが、安価で燃焼効率のよい「ルンペンストーブ」であった。(デジタル図鑑を参照)
冬の準備として欠かせないのが、ストーブの煙突掃除。先端にブラシのついた器具を使い、煙突内部に付着したススを取り除く。煙突掃除専門の業者も存在する。
石炭ストーブはすぐに部屋が暖まらないので、早起きをしてストーブに火を入れ、部屋を暖めておくことも主婦の大切な仕事のひとつであった。
「はじめに新聞紙を、それから細かく割った薪を置いて、そこに火をつけてから石炭をくべる。下手にやると消えちゃうし、少しでも変になると、煙が出たり、わっと燃えたり、と苦労することになる」(金子さん)
・(北海道デジタル図鑑)ストーブ
http://www.hokkaido-jin.jp/zukan/story/03/18.html
●七輪でニシンを......
生活といえば「食」である。当時の食生活はどうだったのだろうか。
「ウチにはかまどがありましたから、ご飯はお釜で、薪で炊いていました。はじめは火力を細くして、吹いてきたら薪を抜き取って弱火にする。蒸す時には炎もちょっとに。目が離せませんでしたね」(金子さん)
昭和20年代後半までの小樽では、夕食時になると、どこの家でも軒先で七輪に炭火をおこし、煙を上げながらニシンを焼く光景が見られたという。
「七輪で焼いたニシンが一番おいしかったわね」(蓮野さん)
「そう。私はそこに、お酢とお醤油をかけて食べるの」(金子さん)
「ウチは大根おろしだったね」(蓮野さん)
「私はニシンの白子が好きだったの。何とも甘い、トロッとしてね」(金子さん)
食糧事情の厳しかった戦中戦後も、小樽では魚が安く手に入った。特にニシンは当時のスタンダードといっていい魚だったが、ピークの明治30年に97万トンを記録した漁獲高は年々減少をつづけ、戦後最大の豊漁である昭和28年の28万トンを最後に、ほぼ「幻の魚」となった。
道は1996年から「日本海ニシン資源増大プロジェクト」を開始し、水産試験場を中心に、稚魚の生産や放流など、ニシン復活への様々な取り組みを行っており、近年漁獲高が増加するなどの動きもみられる。
・(北海道デジタル図鑑) ニシン漁文化
http://www.hokkaido-jin.jp/zukan/story/03/11.html
●「漬け物」の知恵
昭和30年代あたりまで、北海道の一般的な食事の献立といえば、ご飯にみそ汁、魚、漬け物が「定番」だった。北海道の長い冬を過ごすための保存食として、漬け物は重要な存在であった。現代では塩分の高さが問題とされるが、食物繊維やビタミンを含む、日本独特の発酵食品として再評価が進んでいる。
「たくあんなんてどこの家でも漬けてたでしょ。あと白菜、ぬか漬け、にしん漬け。大きな樽に一年分。段階に分けて、いろいろつくるんですよ」(蓮野さん)
「白菜は長く持つから二度漬けする。あと粕味噌だとかね。漬け物は自分の家で漬けるもので、今でも店で買う気はないわ」(金子さん)
「昔はどこの家も、もっと家族が多かったしね。漬け物には、その家の特徴があった。漬け物を漬けるのが上手な人がいるでしょ。ご近所に配って『いやあ、今年はどうなんでしょ』なんて楽しみにされると、ああ今年も漬けなきゃなんない、って、よその人たちのために漬けたりするのよ」(石川さん)
「私もそうね。自分の家で食べるのは半分くらい。あとはみんなよそへあげちゃう」(金子さん)
「これも社交術のひとつなのね。ウチなんかもばあちゃんいたもんだから、秋になるとねじり鉢巻きで張り切ってた。大根洗って、丸太を組んだ台に干して。それから大根の葉っぱを切っておいてね、それを大根の上に乗せて漬ける。漬かったらぬかを洗って、おつゆの実にしたらおいしいの」(石川さん)
「大根の葉っぱはね、カラカラになるまで干して、水に戻して、ちょっと湯がいておつゆに入れるの」(金子さん)
「なげる(捨てる)ところないもねぇ」(蓮野さん)
「いまお店屋さんなんかに行くと、大根の葉っぱ切って売ってるでしょ。漬け物というのはやっぱりね、冬の保存食みたいなものとして作ったと思うから、昔の人って偉いなあって思うわねえ」(石川さん)
●ご近所づきあい
▲「漬け物は、社交術のひとつでもあったのね」と語る石川さん
こうした「生活の知恵」は、ご近所づきあいによって伝えられるものだった。
「今はそういうのがないから、殺伐としてるんでないの。隣近所もあんまり昔のように行き来しないものね」(金子さん)
「昔なら向こう三軒両隣で仲良くして、お味噌やお米の貸し借りしてたけど、いま全然ないものね。私、原因なんだろう、って考えたことあるんだけど、いまの若い奥さんたちは、子どもを預けられるようになったら働き出すんですよ。
昔は女性は家庭を守るということで、奥さん連中は家にいた。それで漬け物つかったら、ちょっとお茶飲みにおいで、って声をかけて。出すのは漬け物だとか、お芋ふかして、それでみんなで団らんしたもんだけど。いまそういうのが全然ないの」(蓮野さん)
時代とともに、日本人の家族関係や労働観は大きく変化している。しかし我々の周囲には、今でもこのように豊かな生活文化を持った人々が存在しているのだ。時には古きを訪ね、北海道のくらしを再発見してみるのはいかが?
※参考文献『北海道の衣食と住まい』(北の生活文庫5・北海道)