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『メルマガ北海道人』第88号 2008.9.25. ―「北海道人」、すすきに太陽の光―

 すすきと言って思い浮かべるのは、月夜や夕暮れ、さびしげな荒野でしょうか。天気の良い日の午前中にすすきを見かけました。開いたすすきの穂が太陽の光を浴びて輝いていました。こんもりとした株から数十本ものすすきが風にゆれて光をうけてゆらゆら。淋しげなすすきのイメージが少し変わった気がします。今が見ごろ、昼間のすすき観賞も悪くありません。
 道内では、大雪山系の黒岳や旭岳、羊蹄山などで初冠雪が観測されました。里は秋、山はふた足くらい早く季節がすすんでいるようです。
 『メルマガ北海道人』第88号、夕方だけど昼間の明るさで配信!

もくじ

連載【上林早苗の『上海日記』】

 1988年9月、一攫千金を夢見て海南島に降り立ったチャンイン。当時、経済特区に認定されたばかりの海南島で、仲間二人とともに政府公認の隔週新聞を創刊します。しかし、この新聞は普通の新聞ではありません。一般紙とはどのように違ったのでしょう。新聞記者チャンインの仕事ぶりは……。

連載【とろんのPAI通信】

 身体の中で善玉菌と悪玉菌が共存するように、善悪を超えたイノチのバランス力にも光に向かう力(善とか良性)と闇に向かう力(悪とか悪性)があるといいます。今回は良縁が起きていく良性妄想力の話。度を越した妄想力が湧き起こってしまうとろんさんや和多田編集長のような「妄想族」が生み出すものとは!

連載【若月元樹の『南の島から――沖縄県黒島の日々』】

 沖縄では地域ごとに姓の分布が異なるので、姓を聞いただけで出身やルーツがわかることが多いそうです。今回舞台となるのは世帯数6の黒島の「伊古」という集落です。姓からたどる伊古の人たちのルーツとは? かつて黒島の玄関だった伊古の桟橋や、悲しい「糸満売り」の話です。

【上林早苗の『上海日記』】 第41回

一攫千金記者

 つい先日、上海市政府による「全市防空警報演習」の予告通達書がオフィスビルのエレベーターホールに突然張り出された。びっくりして内容を読むと、「市民の国防意識を強化し、防空警報信号の認知度を高めるため」とある。エレベーター内では汗だくの出稼ぎ労働者たちがひそひそと会話を交わしていた。
 「ってことは、いよいよ台湾の軍隊が攻めてくるのかな」
 「イヤイヤ、こちらが仕掛けるつもりなのさ」
 結局、当日のその時間はうっかり他のことに没頭していてサイレンに気づかなかったのだが、オリンピックが終わったこのタイミングでいったいどういう意図なんだろう? 少々気になっている。

 一攫千金の夢を胸に1988年の9月、チャンインは海南島へと飛び、そこで同行の二人とともに政府公認の隔週新聞『中国特区時報』を創刊した。当時、海南島は経済特区に認定されたばかりで、企業が多数進出。全国でも注目の地だった。メイン記事は企業紹介だし、普通の新聞ではない。チャンインが知るかぎり、中国初の「有償記事」だけで構成された新聞であった。「有償記事」とはどのような概念だろうか。
 1980年代、記者はあこがれの的だった。というのも、記者はみな「取材にかかわる宿泊、交通の便宜を図るように」と特記された記者証を携帯していた。「優先」の二文字は暗黙の了解によって「無料」と理解され、取材以外の場合でも汽車賃も映画館入場料も免除、場合によっては飲食店のお代までいらなかった。そのため、ニセ記者証が出回った。ある時など、列車内で乗客10人がシート席から寝台車両への変更を車掌に申し出たところ、全員が記者証を提示するという珍事が発生してニュースで大きく取り上げられたこともあったという。
 ただ、そういう「便宜」は図ってもらえても現金をもらえる記者というのはさすがに限られていた。ところが、「市場部」の記者たちは新企業が設立されるたびに開業セレモニーに呼ばれ、帰りには「心づけ」をポケットに押しこまれた。たいていビニール袋いっぱいの土産を渡される。チャンインが一時勤めた「W報」では、こうして書かれた記事を「馬甲袋新聞(ビニール袋記事)」と呼んでいた。

まだまだ「秋老虎」(残暑)の厳しい上海

 「有償記事」とは、「ビニール袋記事」の原理を利用した記事の商品化であった。読者が関心を寄せるのは目の前のニュース記事が取材先から金を取ったかどうかではなく、読む価値があるかどうかである。逆にいえば、価値のある記事なら裏で金銭のやり取りがあってもまったく差し支えない。そうかんがえると、これは実に合理的なシステムではないか。企業側にとっても掲載料金が純粋な広告より2割ほど安いうえ、読み物として扱われるために読まれる確率が高い。より大きな宣伝効果も見込める。新聞社と読者、企業の三者全員にとってプラスとなる、どこからどう読んでも通常のニュースの顔をした記事――、それが「有償記事」なのだった。
 中国の広告産業そのものが発展途上だった当時、チャンインたちの新聞はこの分野の草分け的存在だったという。
 手順は実にあざやかである。「取材」当日の午前中、企業経営者に話を聞く。昼食後、企業側の人間が休憩に入ると、チャンインは執筆に取りかかる。そして、さっき聞いたばかりの内容を2000字ほどのインタビュー記事にまとめるのだ。コツはその企業経営者の波乱万丈の半生や起業の苦労話を多少の演出も織り交ぜつつ盛りこむことである。読者の興味を引くには、企業や商品の紹介だけではダメなのだ。
 約1時間後に原稿が完成する。社長を再びつかまえて原稿に目を通してもらう。ほどよく賛美された商品紹介と社長自身の感動的な起業物語にたいていの人は感激する。なかには涙ぐみながら読む社長もいたという。
 あとはこの原稿を買うか買わないか、買うならいくら出すのかの交渉である。最初は乗り気でなかった社長も、その「商品」の出来栄えに「落ちた」という。海南島はもともとメディアが少ないため、わずか半日の仕事で5000元の売り上げになったらしい。同様のことを紙面が埋まるまで繰り返し、印刷が上がって発行されると集金という段取りになる。諸費用を引いた残りを3人で山分けした。月によってバラつきはあるものの、平均収入は月収1000元以上に上ったという。上海の公務員平均月収が当時189元だったことを考えれば、破格の収入だった。
 たしかな手ごたえに、チャンインたちは確信した。
 「有償記事はこれからの産業だ。企業の多い上海ならもっと金になるはず。よし、上海版を作ろう」
 つい9カ月前、失恋の痛手を抱えて南の楽園へやってきたチャンインは、自信と札束を手にしてふたたび上海へと舞い戻った。

かんばやし・さなえ・・・1978年生まれ、奈良出身。京都外国語大学中国語学科卒業。上海在住8年目。中国人の夫と姑との3人暮らし。

【とろんのPAI通信】 第34回

縁が起きて縁起がいいなあ♪妄想族

 強い妄想力により「適度な安心できる距離」をとりながら、ボクとの関わりを持ちたくない族がいるとしても、これも不思議なことだけど、いつでもどこでも必ず、ボクを観て同じ妄想力が湧き起きて近づいてくる族もいるのだから。体の中の善玉菌と悪玉菌の共存と同じで、善悪を超えたイノチのバランス力だけど、光に向かう力を善とか良性、闇に向かう力を悪とか悪性とか呼ぶのも、なんだか神様と悪魔みたいな抹香臭さを感じて恥ずかしいのだけど、まあ、良縁悪縁があるなら良縁が起きゆく、良性妄想力の話だ。
 今日は9月14日仏滅の十五夜。明日は大安で十六夜の満月。そんな美しくってタイミングの良い日に、親友、和多田さんが、若くって美しい奥さんと一緒に岡山にやってくる。20数年前、一気に描きあげた原稿を、どこに持ち込んでも採用されなくって絶望的になっていたボクを拾ってくれ、いきなり初版8000部も刷って本にしてくれた恩人だ。今、こうして『メルマガ北海道人』に描いていられるのも、彼とボクの妄想力による良縁が起きたからで、光に向かうイノチのバランス力さまさまだ。抹香臭い言葉を使うのはホントにイヤだけど、「捨てる神あれば拾う神あり」ってやつだ。これは、二度離婚し恋人にも捨てられ絶望的になっていたボクを拾ってくれた26歳年下の愛妻はるか、そして、今まで不思議に子どもができなかったのに、ボクが55歳のときにこの世に産まれ出てくれた太一(それも、ボクの両親とも広島で被爆した8月6日に!!)にもいえることだ。
 去る9月9日(タイでは9がベストナンバー)、両親が前回と同じ「グリーンピース」という田園の中に在る老人介護施設に入所した。この施設の院長夫婦がボクを観て、何故だか一目で気に入ってくれ、入所希望者が殺到する中、ボクの両親のために前回の二部屋をずっとキープしておいてくれたおかげなのだ。今の施設状況では、自分のタイミングで入所するのは絶望的に難しく、次のPAI行きは無理かもしれないと諦めかけていたので「拾う神」さまさまなのだ。この良縁が起きゆく中で、ボクらは太一の産まれ故郷PAIへ向かって、次の満月10月15日に一気にバンコクへ飛ぶ。この日、タイでは「オーグパンサー」といって、森の中で修行していた坊さんたちが森から出てくるハレバレとした日なのだ。

古都チェンマイ(タイ)の山の寺(ドイステープ)正門からの御来光を浴びる愛妻はるか&太一

 フライトまでの一カ月の間に二つのライブがある。岡山に戻ってきて、ボクら家族は自転車で地元の総社の町をぶらぶら散歩しているのだけど、総社商店街という細くってカーブの多いこの路地に初めて入った途端、あ!!っと良性妄想(あるいは、夢)が湧き起きてきたのだ。人通りがほとんどなくって寂れてしまった昔の商店街なのに、何故だか突如と愛妻はるかが「この通りでお店をやりたい!!」と夢中でボクに囁き始めたのだ。そして、通り沿いの空き家をさがすうちに、この寂れてしまった通りに「れとろーど」という愛称をつけ、この町並みの保存と商店街の復興を強く想ってNPOを立ち上げた女性に出会ったのだ。彼女もボクたちを一目観て、良性妄想(あるいは、光)が強く湧き起き、良縁が起きたのだ。空家の紹介もしてくれ、ボクたちの音楽など一度も聴いたことがないのに、初めて会ったその日に、いきなり、ライブを二つ頼んできたのだ。
 この昭和風景群の「れとろーど」では、彼女の企画で町をあげて年一回二日間の祭りが始まった。今年の祭りは9月27、28日の二日間で第4回目。この通りの一角で大道演奏を演ることになってしまった。そして来年、「太一や」をOPENする運びになって、愛妻はるかは大喜び。もうひとつのライブは「三宅酒造」の酒蔵でのライブ。お米も自分たちで作り、今まで何度も日本一の金賞を受けている酒造やさんでの美酒試飲ライブ。
 妄想力は台風や地震と同じで善悪を超えて起きゆくイノチの自然現象だけど、人のイノチを蝕み闇へ向かわせる悪性妄想の渦巻く中、人の魂や細胞にイノチを吹き込み人を元気にさせゆくものを、良性妄想と呼んで歓迎したいな。そして、度を越した妄想力がひとりでに湧き起きてしまうボクや和多田さんのような「妄想族」が、我ままいっぱいの妄想の渦を巻き起こすことで、結果的に、善悪を超えゆくイノチのバランス力になっていくのかもしれないな。

     岡山吉備路の(妄想族)とろんより。

とろん・・・1969年高校卒業直後、フランス郵船に乗ってインドに上陸し地球放浪を始める。帰国後、専門学校、大学、夫などを中退しながらも、旅と文筆とライブ活動を続行し、今に至る。著書に『純粋単細胞的思考』『まるだしのエクスタシー』『とろんのダイジョーぶ経典(スートラ)』(共に、晩聲社刊)があり、この3年間は『とろんのPAI通信』を(なまえのない新聞)に連載中。2001年、50歳のときにタイのPAIに流れ着き、MOON VILLAGEという村つくりを展開しながら、(くるくるPAIバンド)を率いPAIでライブ活動中。

ホームページ:http://amanakuni.net/toron/

【若月元樹の『南の島から――沖縄県黒島の日々』】第15回

伊古桟橋

 黒島の北側に伊古(いこ)と呼ばれる集落がある。全部で6世帯は、黒島に5つある集落の中で2番目に小規模な集落である。往時には40世帯ほどあったそうだ。
 沖縄では地域ごとに多い姓が違う。姓を聞いただけで出身やルーツがわかることが多い。ちなみに最も多い姓は、沖縄本島では「比嘉」(ひが)、八重山では「宮良」(みやら)だ。黒島にも宮良さんは何軒かある。伊古の全世帯の姓は、八重山ではめずらしい沖縄本島でよく聞かれる姓となっている。つまり、伊古は沖縄本島から移住してきた人たちの集落なのである。
 沖縄ではかつて「糸満売り」(いとまんうり)と呼ばれる人身売買があった。この「糸満売り」は沖縄の貧しい地域から、漁業の盛んな糸満や離島などに小さな子どもを売っていたもので、黒島にも売られてきた子どもたちがいたそうである。だから、伊古の住民たちは先代が売られて来たということになる。
 この制度は戦前に活発だったようである。島のおじーたちの話によると、売られて来た子どもたちは「やといんぐゎー」と呼ばれていたそうだ。彼らは海でしごかれながら漁法を身につけ、冬場も海に出る。学校にも行かせてもらえなかったそうだ。恥ずかしくて出歩けないようにするため、思春期になると下着を穿かせなかったりもしたのだという。壮絶な労働条件で働いていたそうだ。
 石垣島で海人(漁師)たちから聞き取りをしていたら、「子どものとき、悪さをしたりして怒られると“糸満売りに出すぞ”と言われ、子どもたちは震え上がった」という話を聞いたことがある。売られてきた同世代の子どもが、漁を終えた港で親方から殴られたりしているのを学校帰りなどに見て恐ろしかったという人もいる。売られた子どもたちはどこでも相当な苦労をしたようだ。

沖に一直線に延びる伊古桟橋

 伊古の集落から海へ出たところに伊古桟橋がある。この桟橋は幅4.3メートルで、全長が354メートルに及ぶ。かつては黒島の玄関で、戦前から存在する桟橋である。
 沖縄の海は遠浅が多い。伊古桟橋も遠浅の海域にある。停泊する船舶がだんだん大型化するにしたがって延伸していった結果、354メートルもの長さになってしまったようである。ミキサー車などのない時代、人力でこのような構造物を作り上げるのにはどれほどの労力と時間を要したのか、想像できない。
 戦時中、黒島の牛が軍に供出させられた。伊古の海岸で牛が解体され、伊古の海岸で作られた塩で塩漬けにされ、この桟橋から船に載せられて石垣島へ運ばれていたそうだ。当時、伊古桟橋周辺の海岸は牛の骨だらけだったともいわれる。
 かつて伊古桟橋では黒島最大の神行事である豊年祭も実施されていた。豊年祭のとき、桟橋の上にはずらりとギャラリーが並んだという。黒島の豊年祭の最大の盛り上がりとなる集落対抗の船漕ぎ競争になると、興奮したギャラリーが桟橋から海に落ちたりしたという話も聞いた。勝敗の行方を見守ることが忙しいギャラリーのだれもが、海に落ちた人を救助しなかったとも。
 伊古桟橋の西側にある黒島港が現在、黒島の玄関になっている。海底の岩盤を掘っているため、定期船の出入りには不自由していない。島の人が釣りや漁で利用したり、観光客がぼーっとしたりする憩いの場となっている。2005年には国の登録有形文化財としてその存在価値が認められた。
 ところが、数年前までは難なく先端まで行けた伊古桟橋が少しずつ崩壊してきている。人間が海面の上を歩いているかのように見えるときの桟橋は美しくて私は一番好きな風景なのだが、そんなときには桟橋の先端には行きにくいのである。潮が桟橋すれすれまで満ちているのである。当初は小さかった崩壊部分は、台風が襲来するたびに拡大しているのである。
 伊古に刻まれた歴史とともに、伊古桟橋も風化していっているようだ。

わかつき・もとき・・・1974年広島県生まれ。沖縄国際大学大学院地域文化研究科修了。高校まで広島で過ごした後、沖縄の祖母の家へ移り住む。大学卒業後、そのまま沖縄でサラリーマンになったが、遊び足りなくて退職。大学院へ行ったはいいが、みんなまじめに研究していて衝撃を受ける。現在は八重山諸島の黒島にあるNPO法人日本ウミガメ協議会の附属研究所・黒島研究所でウミガメや島の人々らと戯れている。

次号予告

 次号の配信は10月2日、マハトマ・ガンジーが生まれた日です。「非暴力・不服従」を唱えたガンジーがいま生きていたら、どんなメッセージを伝えるのだろうか――そんなことを考えてしまうほど10月の夜は静かにちがいありません。
 さて、次号のメルマガラインナップは、田野城寿男の「楽譜のいらない音楽授業」、岩崎稔の「大陸人の時間」、編集長・和多田進の「濡れにぞ濡れし」です。お楽しみに!
 
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