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『メルマガ北海道人』第78号 2008.7.10. ―「北海道人」、ビーチがにぎわい始めたョ―

 真夏のような暑さだった先週末の札幌圏。サミットの交通規制を避けるように、北に車を走らせた方も多かったのでは。石狩湾には遊べるビーチがたくさんあります。望来、厚田、石狩、銭函、どこのビーチをのぞいても人がいっぱいでした。暑さに加え、夏を待ちわびていた人の熱気で、ビーチは灼熱状態。冬の淋しげな海辺とは別な場所のようでした。
 さぁ、夏がスタートしました! この際、体型とか細かいことは気にせずに、ビーチに出かけましょう。
 『メルマガ北海道人』第78号、太陽がくれた夏満喫宣言&配信!

もくじ

連載【上林早苗の『上海日記』】

 猛暑の上海から届いた「上海日記」第36回のタイトルは「卒業」。中文科のマドンナ・鄭さんのハートを見事に射止め、彼女との幸せな恋愛を楽しむチャンイン。やがて卒業の日が近づいてきます。当時は就職活動というものがなく、代わりに「分配」制度という世にもおそろしいシステムがあったそうです……。

連載【とろんのPAI通信】

 PAIを脱出し、東京に着いたとたん、“生まれて初の関節炎”になってしまったとろんさん。片足を引きずりながらも会いたい人たちに会うため、都内を歩き回ったそうです。“生まれて初の骨折”で世話になったファイヤーダンサーの女性、彼女を通じて知り合った店長さん。めぐりめぐる変化展開の第29回。

連載【若月元樹の『南の島から――沖縄県黒島の日々』】

 日中は強い日差しが照りつけている梅雨明けの黒島。サンゴが隆起してできたこの島には、なんと、川がない! そのため、島の人たちは干ばつなどでずいぶん苦労してきたそうです。「ゆがふ雨、ゆがふ雨」。おじーの口からこぼれる言葉の重さをかみ締める、「沖縄県黒島の日々」第10回。

【上林早苗の『上海日記』】 第36回

卒業

 いつのまにか梅雨が明け、猛暑の季節がやってきた。しかし、街を走る車の多くはなぜか窓を開けっぱなし。タクシーの運転手に聞くと、ガソリン代が2割近く値上がりしたため、皆エアコンをつけたがらないのだという。特にタクシーは乗車料金が据え置きのうえ、会社からの補助金もないため、平均すると一日40元(約600円)の収入減だそうで、「もうこんな仕事やってられない!」とずいぶん鼻息が荒かった。庶民のインフレ感、不景気感は確実に強くなっている気がする。
 中文科のマドンナ・鄭さんと、彼女のハートを見事に射止めたチャンイン。二人はその後、「夫婦同然」の生活を送った。まずは「財産」の共有である。お金を使う機会のない学生にとって「財産」とは何かといえば学生食堂の「食券」である。紙製の米飯券と、値段ごとに色分けされたプラスチック製のおかず券。命の次に大事なこれらをチャンインは鄭さんにすべて預け、食事の時には二人でおかずを分け合った。チャンインはまるで「月給をまるごと女房に預ける夫」のような自分に酔いしれていた。
 週末や長期休暇になると、「夫婦ごっこ」はいっそう本格的になる。この時期は学生の多くが帰省し、互いの部屋に出入りしやすい。二人は部屋に食料を持ちこみ、朝から晩まで愛を確かめ合った。鄭さんのルームメイトで居残り組の女子学生は気を利かせて学内の映画館へ出かけるのだが、映画を一本見終わり「もういないだろう」と帰ってきてはチャンインと鉢合わせし、またもう一本見に行くというのがパターンだった。
 ちなみに結婚前、しかも学生同士で関係を持つことが当時すでに当たり前だったかといえば、そうでもないらしく、男同士の情報交換といっても又聞きか、せいぜい『プレイボーイ』による知識ぐらいだったという。いまのように避妊用品が簡単に手に入るわけでもなく、チャンインは彼女の月経が遅れるたび図書館に駆けこんで家庭医学の本をあさった。妊娠の可能性におびえながらも二人は幸せな恋をしていた。

地下鉄の建設現場(高安路)

 やがて卒業の日が迫る。学生の関心事はもちろん就職だ。といっても、当時は就職活動というものが存在しなかった。卒業生の数だけ就職先が用意され、各人の能力や政治素養、家族構成を考慮して割り当てられる「分配」制度だ。つまり食いはぐれはないけれど、自分が料理人になるのかアナウンサーになるのかは他人の手に委ねられている、という世にもおそろしいシステムである。配属先発表日を前にして期待と不安に揺れるチャンインたちを先生はこう言って諭した。
「諸君、この職ならアタリだとか、あの職ならハズレだとかいう先入観は捨ててくれたまえ。大学教員の仕事がテレビ局の職員よりつまらないなどと、どうして言える? 教師は長期休暇があって実に快適なのだからね」――。
 その日はいよいよやってきた。中文科事務室前の掲示板に人だかりができている。チャンインは「判決」を受けるような気持ちで自分の名前を探し出した。
「寧波テレビ局」
 寧波(ニンポー)――。今でこそ杭州湾大橋ができて近くなったが、当時は上海から陸路で400キロほどもある浙江省の都市である。鄭さんとはしばらく離れ離れになってしまうだろう。しかし、親から離れ、異郷の地で働くというのは悪くないし、テレビ局というのも気に入った。というのも実はこの2年前、チャンインは大学生世界名詩朗読コンクールで優秀者に選ばれ、録音のため上海人民ラジオ局へ呼ばれたことがあった。門にはいかつい武装警察二人が立っていたのだが、担当者の計らいでそこを通された時の快感――「要人気分」とでもいうのだろうか――はずっと記憶に焼きついていたそうだ。
「これからは毎日、あの特別警備のなかを出退勤できるんだ……」
 満足といえる「判決」だった。
 大学、新聞社、上海市役所、北京の映画制作所――。同級生たちは皆それぞれの道を歩むことになった。喜ぶ者がいれば、失望する者もいただろう。しかし、拒否はできないし、ゴネる時間も与えられていない。配属発表の紙には、たたみかけるようにこう書き添えられていた。
「以上、卒業生諸君はすみやかに寮から退去するように。猶予は2週間とする」
 こうして1984年8月、チャンインは見知らぬ地・寧波で社会人としての第一歩を踏み出した。

かんばやし・さなえ・・・1978年生まれ、奈良出身。京都外国語大学中国語学科卒業。上海在住8年目。中国人の夫と姑との3人暮らし。

【とろんのPAI通信】 第29回

なにがなんだか、神様&サバイバル

土と竹と葉っぱと汗と引力とサバイバル IN NEW MOON VILLAGE

 PAIから東京に着いたとたん、なにがなんだか突如と“産まれて初の関節炎”になってしまった。PAIでの2ヶ月に及ぶ解体移築作業の疲れのせいだろうか? それでも東京滞在中「会いたい人」が何人もいて、なるたけ歩かないようTAXI、バス、駅ではエレベーター等を利用しながらも、片足を引きずりながら毎日、都内を歩き回っていた。
 「会いたい人」の中にACHICOというファイヤーダンスで活躍してる27歳の女友だちがいて、7〜8年前、ボクがインドのベナレスで“産まれて初の骨折”をしたとき、2ヶ月間もボクの看病をしてくれたイノチの恩人だ。ボクがPAIにやって来る直前の話で、そのころの彼女は20歳になったばかりで、上野のアメ横で「店長さん」と二人でインド風の怪しげなお店をやっていたのだけど、2ヶ月ほどの休みをもらってボクに会いに来たとたん、不運にも、“産まれて初の骨折”の看病生活が始まった。そして、ボクの看病を終えて日本に戻ったとたん、不運にも、或いは幸運にも、その「店長さん」、なにがなんだか、大麻取締法かなんかで7年の実刑を受けてしまったのだ。その「店長さん」、何故かボクに縁があって、若きころ、ボクの本『純粋単細胞的思考』(23年前に出版)を読んでいて、ボクの女友だちのACHICOと遭遇することでボクと出会ったのだ。
 片足を引きずりながらACHICOに会いに行ったら、なんと、その「店長さん」が7年ぶりに出所したばかりだという。「店長さん」が逮捕されてからはアメ横の店が営業できなくなり、ACHICOと「店長さん」の恋人の女二人で『SPACE CAKE』という、ちゃんとしたお店を上野の地下で始めたのだ。そして、この7年で『SPACE CAKE』は多くの人たち(特に男ども)に知れ渡り、店は繁盛し、魅惑の魔性の女二人も刻々と変化展開してゆく。そして、7年ぶりに「店長さん」が目にしたものは、自分の恋人だった人に新しい彼氏がいて、自分の片腕だったACHICOは店をやめ、有名なファイヤーダンサーになり、結婚して一歳になる女の子の母親にもなっていたのだ。ボクの太一と同じ自宅出産で、東京町屋のマンションの一室で産んだのだ。
 その女の子(しょうかちゃん)とACHICOとボクの3人で、久々に上野の『SPACE CAKE』へ行ってみた。なにがなんだか、カウンターの中には「店長さん」とカレのお母さんの二人が働いていたけど、お店の雰囲気は全く同じでほっとした。インテリアのほとんど全てはACHICOが手がけてきたもので、ボクの東京での“なごみ処”の一つになっていた空間だから。拘置所に「店長さん」がいたとき、一度だけ長い手紙のやり取りをして、7年後の再会を約束したのだけど、僕の突如の訪問に驚き、目を真っ赤にして泣き始め、そして魔性のACHICOはそばでそれを見て、子供をあやしながら心から目を細め笑っていたのがとても印象的だった。
 そして、今、岡山の総社市の両親の家。明日6月27日、太一と愛妻はるかが新潟の長岡から一気に岡山にやって来る。タイから東京に着いた6月15日が、ちょうど彼女の母親の誕生日だったので、その日からお互い別行動をしてきたのだ。「店長さん」との7年ぶりの再会以上に待ちどおしい12日ぶりの再会。愛する人と再会する、そのつかの間のわくわくするエクスタシーがボクはたまらなく好きだ。そして、7月1日の朝、施設でボクらの帰りを3ヶ月間ずっと待っていた両親を、親子3人で迎えにいく。“一瞬先は光”のいつまで続くかわからぬ介護生活がまた始まり行くのだ。
 これから残り少ないイノチを自分の息子や嫁や孫たちとともにシアワセに生きようとする年老いた両親と、これから限りない可能性に向かって元気いっぱいに生き活こうとする2歳ちょっと前の産まれたての太一と、総社の町でアートなSPACE作りに夢膨らむ31歳の若き愛妻はるか、そして、まだ片足を引きずりながらもジャングル化してしまった庭の手入れに黙々と汗流す日々の57歳のボク。みんな、なにがなんだか、この世にあ!!!っと誕生して、学校なんか行って、社会人とやらになって、男や女や本やココロ疼くモノに出会っては変化展開してゆき、助けられては助けては助けられて、イノチがくるくるまわりまわって巡りゆき、なにがなんだか、今ここ、神様&サバイバル

      丈夫で健康なのが一番、などと思い始めている、初関節炎のとろんより。

とろん・・・1969年高校卒業直後、フランス郵船に乗ってインドに上陸し地球放浪を始める。帰国後、専門学校、大学、夫などを中退しながらも、旅と文筆とライブ活動を続行し、今に至る。著書に『純粋単細胞的思考』『まるだしのエクスタシー』『とろんのダイジョーぶ経典(スートラ)』(共に、晩聲社刊)があり、この3年間は『とろんのPAI通信』を(なまえのない新聞)に連載中。2001年、50歳のときにタイのPAIに流れ着き、MOON VILLAGEという村つくりを展開しながら、(くるくるPAIバンド)を率いPAIでライブ活動中。

ホームページ:http://amanakuni.net/toron/

【若月元樹の『南の島から――沖縄県黒島の日々』】第10回

ゆがふ雨

島に点在する、海底送水前に利用されていた雨水タンク

 梅雨が明け、日中は強い日差しが容赦なく注ぐ一方、夜の星空は美しい。特に天の川が夜空を彩っている。
 空には大きくて美しい天の川が見られるのに、黒島には川がない。
 黒島はサンゴが隆起してできた島。表土は薄く、降った雨は地下に浸透してしまうので、地表を流れる河川が形成されないのである。サンゴが隆起してできた琉球石灰岩の地盤は固く、井戸掘りが困難なうえ、海水がまざるしょっぱい井戸の水は飲めなかった。そこで、島民は雨水の確保に頑張った。
 ほとんどの家は軒から樋を伸ばし、雨水を貯めていた。屋根が赤瓦で覆われた家はよかったそうだが、かやぶき屋根の家の人たちは、かやから染み出た麦茶のような色をした水を飲んでいたそうだ。黒島には瓦に適した土がなく、石垣島から運んでいた。今では、かつてのかやぶきの家は赤瓦に変わっているが、昔から赤瓦が載っていた屋根の家は、それなりの財力があったと考えられる。
 黒島では戦前から牛が飼われていたが、戦時中は軍に供出させられ、黒島の畜産は壊滅的な打撃を受けた。戦後、少しずつ頭数が回復してきたところに長期干ばつが襲った。1971年のことである。この年の3月から9月までの7カ月間、黒島には雨が降らなかった。すぐ隣の西表島は干ばつとは無縁の島である。西表島には山があり、原生林がある。山が雨雲を留め、原生林が降水を貯めて川に豊富な水を提供するからである。
 干ばつが始まって3カ月で学校給食がついにストップ。農作物や牧草は枯れ、牛は次々と死んでいった。西表島や石垣島から黒島に米軍の船艇による飲料水の海上輸送が実施され、石垣島の高校生たちは「黒島に草を送る運動」を展開し、牛のための牧草を黒島行きの定期船に載せたという。
 干ばつが発生するたびに、干ばつ窮民は再出発の地を求めて島を出ていった。1953年生まれの島の男性によると、約40名いた同級生が中学卒業時には半分になっていたという。
 1971年の長期干ばつをきっかけに、西表島から黒島への海底送水構想が一気に加速し、1975年、ついに海底送水が実現した。現在も黒島で水道の蛇口をひねると西表島から海底送水管を通ってきた水が出てくる。
 島では集まりがよくあるが、集合時間までに会場へ行っても、人はほとんど集まっていない。主催者ですら時間になっても来ていない場合が多く、大体、集合時間を守る私が会場の電気をつけている。この現象は黒島に限ったことではなく、沖縄全域で見られるようで、「沖縄の人は時間を守らない」と、一般的には言われている。沖縄での結婚式の招待状には大体、「時間厳守でお願いします」と書かれている。
 これまでの沖縄暮らしから得た私の見解は、沖縄の人は時間を守ろうと思えば守ることができる。しかし、それは個人的な用事の場合である。つまり、受験とか船や飛行機に乗る時など、個人の利益に直結している場合はきちんと行動できるのである。そして、自分に不利益にならない場合には、時間を守る必要はないと感じているようである。
 ある集まりの日、私は時間どおり会場に入った。集合時間が過ぎてしばらくすると、大雨が降りだした。いまさら遅れてくる人に対して何ら感情は無いが、さすがにこの時は、時間どおり来ると雨にぬれずに済んだのに……と、これから遅れてくる人たちをあわれんでいた。しばらくして、おじーが現れた。服も髪の毛もびしょぬれになっているにもかかわらず、満面の笑みを浮かべ、「ゆがふ雨、ゆがふ雨。この雨で牧草が育つ」と言いながら入ってきた。
 「ゆがふ雨」を簡単に訳すと、「恵みの雨」である。生まれたころから、蛇口をひねれば当たり前に水が出る環境で育った私に、干ばつの苦労は簡単に理解できないが、雨にぬれて笑うおじーの口から発せられた「ゆがふ雨」という言葉に、重みがあることは理解できる。

わかつき・もとき・・・1974年広島県生まれ。沖縄国際大学大学院地域文化研究科修了。高校まで広島で過ごした後、沖縄の祖母の家へ移り住む。大学卒業後、そのまま沖縄でサラリーマンになったが、遊び足りなくて退職。大学院へ行ったはいいが、みんなまじめに研究していて衝撃を受ける。現在は八重山諸島の黒島にあるNPO法人日本ウミガメ協議会の附属研究所・黒島研究所でウミガメや島の人々らと戯れている。

次号予告

 次号の配信は7月の中旬です。海への熱がますます高まる北海道人。避暑地と聞いて、せっかくの暑さをなぜ避けなくちゃいけないんだろう、と思ったことはありませんか?
 さて、次号のメルマガラインナップは、田野城寿男の「楽譜のいらない音楽授業」、岩崎稔の「大陸人の時間」、編集長・和多田進の「濡れにぞ濡れし」です。
『メルマガ北海道人』第79号の配信は、7月17日(木)です。
 
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