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『メルマガ北海道人』第56号 2008.2.07. ―「北海道人」、樹枝状六花がはらはらと―

 黒いコートの袖に雪がくっつきました。頭上の空は晴れ。それは少し離れた西の空から降りてきた風花でした。顔を近づけて見るとすみずみまで見事に成長した美しい樹枝状六花でした。よく見ようとさらに顔を寄せると、樹枝状六花は消えてなくなりました。鼻息のせいでした。
 樹枝状六花にあられも混じり、積もった雪をかためて、第59回さっぽろ雪まつりの雪像が作られています。なんという贅沢!
 『メルマガ北海道人』第56号、樹枝状六花だらけで美しく贅沢に配信!

もくじ

連載【上林早苗の『上海日記』】

 毒ギョーザの話題でもちきりの日本ですが、中国ではここしばらくの大雪による被害がかなり深刻とのこと。上林さんもなにやら心配ごとがあるようです。さて、今回の上海日記は毛沢東が死去した1976年の話。誰もが緊張して耳を傾けていた毛沢東追悼式典のラジオ中継から聴こえた「ぺっ」。カトちゃん? まさか、誰の「ぺっ」?

連載【とろんのPAI通信】

 同時に痴呆化してしまった両親との介護生活も1カ月が過ぎようとしています。両親の痴呆力に巻き込まれながらも巻き返しをはかる、とろんさんの様子をちょっと覗き見です。今回は両親の痴呆力がどれほどのものなのか、日々の暮らしぶりを伝えてくれます。一寸先は光――深刻な介護問題にとろん的光が差し込むPAI通信第18回。

連載【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】

  前回、編集長・和多田進は「いったん休載を提案します」と切り出しました。今回は休載提案への鈴木邦男氏の返答です。まずは、お読みください。

【上林早苗の『上海日記』】 第25回

さよなら毛主席

 ここのところ中国は大雪である。上海はわずか数センチ積もっただけだが、それでも知人の勤める工場では立ち入り禁止になった直後に雪の重みで屋根が崩落。あわや大惨事になるところだった。中国では手抜き工事のことを「豆腐渣工程(オカラ工事)」と呼ぶのだが、もしやわがアパートもオカラ製では、と少なからず心配である。
「発展体育運動、増強人民体質(スポーツを発展させ、人民の体質を強化せよ)」
 毛沢東語録にもあるスポーツ推進のスローガンである。小学6年生までの3年間、チャンインの学校では「象徴性長?」と呼ばれる冬季マラソンがあった。卒業までに共産党軍の大長征と同じ1万2500キロを走破しようという、実に壮大な企画である。もちろん誰も達成できなかった。
 夏は水泳大会だ。1976年7月、毛沢東の長江初遊泳10周年を記念した1万人規模の小学生遊泳大会が上海黄浦江で開かれた。チャンインも区代表としてこれに臨んだが、遊泳開始後まもなく力尽き、待機していた軍の救出艇に引き上げられた。
 この水泳大会から2か月後の1976年9月9日、強健で知られた毛沢東はついに83年の生涯を閉じた。この年は1月に周恩来首相が死去、それにからんで4月に第一次天安門事件が発生、7月には死者約24万人を出した河北省唐山大地震と、大事件が続いている。そのなかで毛沢東の死は決定打といえた。小学校卒業を間近に控えたチャンインは思ったという。
「きっとソ連が攻めてくる。次は日本が、アメリカが、蒋介石が――」
 悲しみと不安で泣き出す同級生もいた。
 主席の死去から9日間、中国では歌や舞踏など一切の娯楽イベントが中止された。向かいに住む男性は飲酒が見つかって連行され、チャンイン自身も皿を洗いながら鼻歌を歌っていたところを姉にひどくしかられた。

路上でポップコーンを売る人。圧力鍋にハンガーが通してある

 9月18日午後3時。100万人が集結した北京・天安門広場では毛沢東追悼式典が行われようとしていた。この時、中国各地では職場や学校・住民委員会ごとに追悼会場が設けられ、人々が緊張に身を硬くしてラジオ中継に聞き入っていた。チャンインは学校の講堂にいた。
「ただいまから偉大なる指導者・毛主席のご遺影に三礼をします」
 司会進行役で党副主席の王洪文の声が響く。1カ月後に四人組の一人として逮捕される人物だ。
 チャンインらは互いの様子をうかがいつつ、王副主席の言葉どおり3回、頭を下げた。ところが、それから一分も経った頃、遅すぎるかけ声がラジオから発せられた。
「一礼……二礼……三礼!」
 タイミングを狂わせられた教員・児童は泡を食った。混乱からか一同、ラジオを前にバッタのごとくお辞儀を繰り返す。チャンインにいたっては「一礼」ごとに三礼したというから都合12回、頭を下げた計算だ。後に放映されたテレビ映像によると、王洪文の「三礼」宣言のあと、老齢の幹部らが緩慢たる動作で身をひるがえして遺影と対面したため、実際の号令までに時間がかかった、ということらしい。
 次に華国鋒が弔辞を読んだ。毛沢東の後継者といわれ、当時第一副主席と国務院総理を兼任していた人物だ。独特の山西省なまりが講堂に響く。
「わが偉大なる領袖、毛主席は――」
 ところが、ほどなくしてチャンインは弔辞どころではなくなった。退屈なのではない。スピーカーから聞こえるある音が気になってしょうがないのである。
「ぺっ」
 せきばらい一つない静粛な場だ。かすかな音声さえもはっきりと耳に届いた。まちがいない。華首相は原稿をめくる時、指先をなめている。一枚読み終えたらしいところで「ぺっ」。しばらくするとまた「ぺっ」――。
 ここで笑えば「反革命」。そんなことは小学生でも予測がついた。チャンインはこみあげるものを必死に抑え、そしてこう思った。
「この人が指導者だなんて。僕たちの国、大丈夫かな……」
 直後、華国鋒は四人組を捕らえて党主席、党中央軍事委主席に就任。党・軍・政の三権を握った。10年の長きにおよんだプロレタリア文化大革命はここにきてようやく終焉を迎えたのである。

かんばやし・さなえ・・・1978年生まれ、奈良出身。京都外国語大学中国語学科卒業。上海在住7年目。中国人の夫と姑との3人暮らし。

【とろんのPAI通信】 第18回

一寸先は光

変わり者と呼ばれる横姿
(PAI一番の『変わり者』だけど、この7年間PAIで一番『変わってない者』もこの人)

 冬も温暖な岡山だけど、昨日1月21日、初雪化粧を迎えた。みずがめ座生まれのボクは、みずがめ座の始まる1月21日に突如とタイミングよく初雪になったというだけで、今までのすべてが(ダイジョ〜ぶ化)される程、このごろはもう一日一日が(一寸先は光)の人生なのだ。  今日22日は満月で3回目の介護サービスの日。毎週火曜日と金曜日の9時10分にお迎えが来て、夕方4時30分に両親が送られて帰ってくる。燃えるゴミを出す日が同じ火曜日と金曜日なので、覚えやすいからそうしたのだけど、燃えるゴミかあ、なんて何故だか思わず笑ってしまう。
 とにもかくにも週2回は彼らの昼ごはんのことをまったく考えなくっていいし、そしてなによりもプロに預けてしまうので、ボクの中から二人の(気配)が消え去って(心配)しなくってすむから(ほっと)するのだ。これって、太一、まだ一歳半にもならない太一との関わりと似ている。でも赤ちゃんの太一からはイノチをもらえるけど、痴呆化した両親からはイノチを奪われるばかりだ。そして、そのように感じてしまうボクの今の(イノチ観)をなんとかしてゆかないとイケナイなと思う介護初心者の未熟なボクなのだ。「痴呆」とか「介護」という言葉のマジックから覚め行くことが鍵なのかもしれないな。
 今朝も迎えに来る直前に、痴呆化した父のわがままな言葉にボクがむっとまともに反応してしまい、PAIに帰る! 帰れ!! の言い合いを対等に大声でやってしまったばかりだ。こんな絶望的シーンは、愛妻はるかと太一がまだ長岡から帰ってきてないから許されるけど、この愛する二人の前では決してやってはイケナイことなのだから。 前回、両親の(痴呆力)に巻き込まれながらも(くるくるぱあ感染源)のボクが巻き返してゆく様を描いてみたいといっていたけど、まずは、その(痴呆力)の数々を箇条書きにしてみた。

父上の場合。

1.遠い記憶はあるけど近い記憶はオモシロイくらいどんどんと音をたてて消え去ってゆく。
2.夜なのに朝だと思ったり、今日が何日かも曖昧なのに、自分の決めた食事時間には異常に敏感でうるさく、一部屋にひとつ以上のカレンダーがないといつまでも不安がる。
3.疲れたり睡眠不足だったり、食事が好みでなかったり空腹感が少しでもあると、あらわに不機嫌になり、人を平気で罵り始める。
4.洗面所の特定の引き出しや居間の特定のカーテンを少しだけ開けておく癖が強く、それを指摘するとなぜだか激怒する。
5.薬のせいか脳萎縮のせいか一日中寝る方向にあり、放っておくと寝てばかり。
6.自分の思うように事が運ばないと、所かまわず暴力的になる。

そして母上。

1.とにもかくにも朝8時から夜9時までのあいだに4回のインシュリン注射をしないと生存できないし、本人は常に低血糖で倒れる不安に怯えてる。
2.耳が遠いのでこちらは常に大声で全力で話しかけないといけない。
3.父に女がいる、モノが不思議に消えてスグなくなっていく、毎晩泥棒が忍び込んでいる、私は早く死んだほうがいいとみんな思っている、等の被害妄想が強い。
4.その湧き起こるネガティブな妄想のすべてを、所かまわず人かまわず感情的に低音の不気味なこわいろで表明してくる。

平常心がPAIを歩く前姿
(朝から晩までプラスチックものを集めながら、黙々と街の人たちからタバコや食べ物をもらい歩く)

 どちらにしてもその(痴呆力)の巻き込み力は偏執的かつ強力で、そのバランスをとるように、この一ヶ月間のボクの日記の量はスゴイ!!! それは、ボクが30代の後半、一回り年下の恐るべきわがままでセクシーな美女とアジアを2年旅した時、やはり日々壊され行く自分の崩壊バランスをとるように描き続けた膨大な量の日記に相当する。そして、この時の偏執的な日記が『まるだしのエクスタシー』(晩聲社200冊目の本!!)というボクの第2冊目の本になったのだから、不幸中の幸いってやつだ。
 そんな日々のなかでも、母は掃除や洗濯にマメで意識的によく体を動かすし、父は本能的にか自ら脱水状態にならないように深夜みかんを隠れる様にして沢山食べてるのでボクも安心してる。父が庭に植えているキンカン、ゆず、レモン、柿なども収穫できて、ボクたちで吊るした干し柿をみんなで食べたり、毎回ゆず湯に入ったりしているのどかな日々でもある。そしてなによりも、毎日その庭に何も知らない小鳥たちが遊びに来てくれるので、なんだか毎日その鳴き声と風景に救われてる。   そしていよいよ愛妻はるかと太一が25日に帰って来る!!! その翌日26日はボクの57歳の誕生日。両親とともに迎える誕生日は39年ぶり!! それも新潟美人の嫁と可愛い初孫と共に!!! そして、一日一日(一寸先は光)の人生がこれからも展開続行してゆく。

    『まるだしのエクスタシー』の作者とろん、より。

とろん・・・1969年高校卒業直後、フランス郵船に乗ってインドに上陸し地球放浪を始める。帰国後、専門学校、大学、夫などを中退しながらも、旅と文筆とライブ活動を続行し、今に至る。著書に『純粋単細胞的思考』『まるだしのエクスタシー』『とろんのダイジョーぶ経典(スートラ)』(共に、晩聲社刊)があり、この3年間は『とろんのPAI通信』を(なまえのない新聞)に連載中。2001年、50歳のときにタイのPAIに流れ着き、MOON VILLAGEという村つくりを展開しながら、(くるくるPAIバンド)を率いPAIでライブ活動中。

【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】第30回

鈴木邦男→和多田進

休載の提案を受けて

 休載の件、了解しました。残念ですが、仕方ないと思います。全ては僕のせいです。僕の力のなさ、未熟さのせいです。和多田様には本当にご迷惑をおかけいたしました。又、『北海道人』のスタッフの皆さまにも、さらに、これを読んで下さっていた皆さんにも。今回の失敗を深く反省し、又、出直したいと思います。

 自分の力不足を棚に上げてこんな事を言うのはおこがましいのですが、「往復書簡」というのは本当に難しいと思いました。やはり僕には無理だったんですね。今まで、自分一人で、勝手なことを喋り、書いてきました。その癖が抜けないのでしょう。たまに「対談」をやることはあっても、必ず「司会」がいたので、脱線しそうになる僕を引き戻してくれました。又、「この問題はどうしたの?」とか、「前の話だけど、もう少し説明してよ」と言ってくれます。又、司会がいなくとも、相手の人が、「これはどう思うの」とか、「もう少しこの問題を話そうよ」と対談者がその場で言ってくれます。面と向かっているから言いやすいのでしょう。
 でも、「往復書簡」となると、時間をおいて「返事」をするので、「あれも言おう」「これも言おう」と気があせります。又、「もっと別の話も聞いてみたい」「今は、ちょっと関係ないと思えても、これを押さえておいた方がいい。そして又、この問題に戻ったら、話がふくらむだろう」などと考えます。でも、そんな「計画」をしながらも、うまく書けなかったり、尻切れトンボになったりします。やはり、僕の力では初めから無理だったのでしょう。本当に申し訳ありませんでした。

道30・東京日本橋(写真・WATADA)

 葦津珍彦先生の場合と同じになってしまいました。そんな気がします。前に書いたと思いますが、一時期、よく葦津先生を鎌倉の自宅にお訪ねしました。野村秋介さんと二人で行きました。野村さんはよく質問していましたが、僕は「無力感」を感じました。全くレベルが違うので、とても質問なんか出来ないと思いました。剣道や柔道の稽古でも、ちょっと上の人とやって、たまに勝ったりすると、自信もつき、続けようという意欲も湧きます。しかし、余りにレベルの違う人とばかり稽古をしていると、「無力感」しか感じない。もっともっと勉強し、「いい質問」が出来るようになってから行きたい。野村さんにそう言ったら、「そうか」と言って納得してくれました。いや、納得したのではなく、「こいつはダメだな」と思ったのでしょう。野村さんにも、葦津先生にも、あきれられました。
 今は反省しています。力がなくても、必死に食いさがるべきでした。お二人には、もっともっと聞いておくべきだったと思います。「無力感」なんて言って、結局、自分のことしか考えなかったんだと思います。「自分がミジメになりたくない。傷つきたくない」と考えていたのでしょう。卑怯で、ずるい人間だったと思います。
 その時の失敗は繰り返すまいと思いながら、又、繰り返してしまいました。ダメな男だと思います。
 この「往復書簡」を始めてから、やはり「巨大な壁」を感じました。和多田様にはとてもかなわない。まるで葦津先生と同じだと思いました。「無力感」を感じました。ただ、何とか、食いついてゆきたいと思いました。でもダメでした。
 ただ、前回と違い、今回は再チャレンジの機会を与えられました。10年後か、あるいは5年後に、がんばって出直したいと思います。
 今回は、せっかく素晴らしいチャンスを与えてもらったのに、僕の無能、無力のせいで生かし切れず、申し訳ありませんでした。心からお詫びいたします。

2008年2月4日

著者近影

すずき・くにお…1943年福島県生まれ。67年早稲田大学政治経済学部卒業。70年同大学院政治学専攻科中退。70―73年サンケイ新聞社勤務。72年「一水会」設立、代表。99年同顧問。著書に『新右翼―民族派の歴史と現在』(彩流社)、『夕刻のコペルニクス』(扶桑社)、『言論の覚悟』(創出版)、『公安警察の手口』(筑摩書房)、『愛国者は信用できるか』(講談社)など。

次号予告

 次号の配信は2月14日のバレンタインデーです。義理も本命も自分用も、数量・金銭的に盛り上がるのは、OLなど大人の女性でしょう。でも心情的に盛り上がるのは女子中学生あたりでしょうか。いや、女子小学生でしょうか。
 さて、次号のメルマガラインナップは、田野城寿男の「楽譜のいらない音楽授業」と岩崎稔の「大陸人の時間」です。
 『メルマガ北海道人』第57号の配信は、2月14日(木)です。

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