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『メルマガ北海道人』第52号 2008.1.10. ―「北海道人」、はじまりは駆け足で―

 「よーいドン!」の合図が聞こえたかのように、正月休みを終えた会社員も公共交通機関も通勤の車もおじいさんもおばあさんも一斉にスタートを切りました。何のスタートを切ったのかよくわかりませんが、2008年を一斉に始めたことは確かです。マラソンのスタートのように、かなりのスピードで、鼻息を荒くして、人を押しのけんばかりの勢いで走っています。1年のはじまりくらいは勢いよくいきたいものです。
 『メルマガ北海道人』第52号、装いも新たに、駆け足で、有酸素運動的に2008年も配信!

もくじ

連載【上林早苗の『上海日記』】

 今回のタイトルは「性の目覚め」、チャンインが小学校6年生のころの話です。好意を抱いていたシューさんがいる「落ちこぼれグループ」は、成績こそぱっとしませんが、大人の情報に精通していました。彼女がいるグループと付き合っていたチャンインが経験したのはかなりシゲキ的な……。

連載【とろんのPAI通信】

 両親の介護のためにPAIから岡山県吉備路の実家に帰省したとろんさんは、隣町である人物に再会します。ムーンビレッジから突然日本に帰国してしまったコーヒー屋のかわさん。久しぶりに再開したかわさんは、アパートの一角で身も心も細々と暮らして……

連載【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】

 鈴木邦男さんの学生時代には、右翼学生と全共闘が常に論争し、殴り合っていたそうです。当時、全てにおいて左右両翼の学生は対立していましたが、「改憲反対」のスローガンだけは同じでした。学生時代の回想、昨今の憲法改正論について鈴木さんが語ります。

【上林早苗の『上海日記』】 第23回

性の目覚め

 人は小学校時代には異性を意識しはじめるらしい。チャンインが小学校低学年の時、子どもたちは男女二人掛けの机の真ん中に「三八線(サンバーシエン=朝鮮半島の北緯38度線のこと)」なる境界線を彫っていた。隣の異性に対する「侵入禁止」の警告である。休み時間になっても男女はろくに話も交わさなかったし、たとえ同性同士でも話題が少しでも愛だの性だのに触れると、軽く鼻で笑って無関心を装った。
 小学6年生の時、クラスにシューという女の子がいた。小さな目とぼってりとした唇、平べったい鼻、そして発育しかけのやわらかな体つきで、チャンインに言わせるとかなりの美人である。両親が離婚して上海にいなかったため、彼女は5歳年上で「頼三(ラセ=不良少女)」の姉と父方のおばとの3人暮らしだった。ちなみに「頼三」は「lassie(小娘、少女)」に由来する洋径浜英語(上海独特の混成英語)で、1960年代後半から70年代後半にかけて流行した言葉だ。彼女たちの多くは勉強をせずに一人または複数の男性とつきあい、食事や衣服を与えてもらったというから、形としては日本の女子高生の「援助交際」に近かったのかもしれない。ただし、性風俗を含む一切のブルジョア的行為が糾弾された当時の時代背景を考えると、その動機や心情にはかなりの差があるだろう。
 チャンインは放課後になると、シューさんを含む「落ちこぼれグループ」の男女4、5人と付き合うようになった。彼らは成績こそぱっとしないが、大人の情報に精通していた。トランプやタバコ、それにキスや抱擁などのスキンシップ。それらは性への興味をひそかに募らせていたチャンインにとって刺激的な世界だった。シューさんの家に行くと、彼女のおばは決まって胸元をはだけ、乳房を見せながらこう言った。
「ホラ、もんでちょうだい」
 チャンインたちはワアワアと騒ぎながら、その胸に触った。おばさんは精神疾患を患っていたらしい。

立ち退き問題の裁判で反訴権を不当にはく奪されたとして「党よ党よ、あなたはいずこに」という題の抗議文を掲げる民家。玄関には「毛沢東思想万歳」「中国共産党万歳」の赤い張り紙が(莫干山路)

 週に2回、チャンインは地域の少年活動センター「少年之家」に通っていた。小学生革命劇の語り手として訓練を受け、各小学校を巡回上演するためだ。その同じグループにチウ(仇)という女の子がいた。容貌といい、名前といいチャンインは好きになれなかったが、どういうわけか彼女のほうではチャンインが大のお気に入りだった。
 二人が1928年の中国を舞台にした革命模範劇『杜鵑山(ドゥジュエンシャン)』を練習していた時のことである。シーンはちょうどチャンイン演じる悪役・温其久(ウェンチージウ)とチウさん演じる共産党代表・柯湘(クーシアン)が対峙する重要なくだりだった。脚本ではチャンインが腰のモーゼル拳銃を抜こうとした瞬間、彼女がその手首をすばやくつかみ、弾みで銃が地面に落ちる、ということになっていた。
「あなたは反革命分子よ!」
 彼女はそう叫び、チャンインの銃が床に転がった。シナリオ通りである。ところが、彼女は「反革命分子」の手首をつかんだまま、いつまでたっても放そうとしなかった。チャンインの頭は真っ白になり、子どもたちからは冷やかしの声が上がりだす。
「愛されちゃった、愛されちゃったー!」
 好きなシューさんとキスする喜びと、嫌いなチウさんに手を握られる苦痛。その天地ほどの差を思い知った瞬間だった。
 「少年之家」ではもう一つの事件を体験している。指導員の一人に解放軍の文芸兵だった20代の女性がいた。彼女はチャンインを特別かわいがり、チャンインのほうも色白でぽっちゃりとした彼女によくなついていた。
 ある日、この指導員に物を取りに来るよう呼び出されたチャンインは、施設内の小部屋へと入った。彼女は仮眠用ベッドに腰かけていたが、やがて彼を招き寄せ、自分のひざに座らせた。そして、彼女は教え子の手を自らの胸のふくらみへと導き、自分の手をチャンインのズボンへと滑りこませたのだった。突然のことにチャンインは何が起きたのかわからなかった。彼女が何を言ったのか、その後どうやって帰ったのか、一切覚えていない。ただ、軍服の下の大きな乳房の手ざわりと、触られた性器の痛みだけが幼心に深く刻まれることになった。チャンインはこうして少年少女たちの「38度線」をまた一歩、越えたのである。

かんばやし・さなえ・・・1978年生まれ、奈良出身。京都外国語大学中国語学科卒業。上海在住7年目。中国人の夫と姑との3人暮らし。

【とろんのPAI通信】 第16回

PAIから吉備路へ

今年65歳になるかわさん
―3年前ムーンビレッジでコーヒー屋をやってた頃―

 いまから3年ほど前、タイの首都バンコク(タイ語ではクルンテープ)で、かわさんという日本人に遭遇した。60過ぎの男の人で、今にも倒れそうなくらい体は小さく細くって顔は蒼白状態で、みるからに(死に向かう人)だった。それでも顔相はよくって、笑顔が美しい初老の人だったからボクの心が少し動いてしまったのだ。かわさんは慶応大学を卒業し、演劇界にはいったりしながら、最終的には新宿歌舞伎町で水商売を始め、60歳になる前に歌舞伎町から足を洗ってタイの古都チェンマイに移り住み始める。年金など払ったこともなくって、生活はその水商売仲間からの仕送りでやりくりしていたけど、相手の都合でその送金も途絶え、いよいよ腹をくくって残りの金でインドゆきの片道切符を買い、金の続く限りインドで生き延び、金が尽きたら自らの命も一巻の終わりという方向にあるとき、ボクとバンコクで(たまたま必然)出合ったのだ。彼はインドに行く直前のこと、ボクはPAIに返る直前のこと。
 ボクがムーンビレッジに戻り作業をしていると、ある日、その顔面蒼白の細くって小さいかわさんがヨロヨロと倒れるようにやってきて「オレ、インドにいくの、止めたよ。もう少し生きてみたくなったので、ムーンビレッジの住人になっていいかなあ???」と今回は(生に向かう人)に変身していた。
 PAIの町は今タイでは有名なリゾートになっていて“タイの軽井沢”“タイのスイス”のようなキャッチフレーズでタイ人にとっては憧れの避暑地になっている。だから、雨季(5月から10月)が終わってから始まる冬(11月から2月)は朝などは気温が10度前後で、寒いときには0度近くまで下がることがある。それでも亜熱帯地方に属しているため、昼間太陽が出れば暑いくらいで半そでで十分だし、水浴びだってできるのだ。初老のかわさんがPAIに登場したのは、3年前のそんな冬が始まるころだ。ムーンビレッジの壁のない小六角堂に寒々と住み、一杯20バーツ(約60円)のコーヒー屋さんを始めた。
 井戸からの水汲み、草取り、田んぼの世話、町まで歩いての買い物などのムーンビレッジでの日常生活を送っているうち、みるみる元気になり顔面も赤みがかかってきて体力もつき、ますます(生に向かう人)になってきた。そして1年半ムーンビレッジに住んだ後、なにを想ったか、ボクらがインドに行ってる間に誰かに借金をして日本に戻り、ムーンビレッジで知り合った旅人たちを訪ねて日本中をさまよった挙句の果てに、最終的に岡山県の倉敷に辿り着いて、またお金が尽きてしまったのだ。よりによってそこはボクの生まれ故郷で、今ボクの両親が住んでいる吉備路(総社市)の隣町だ。金の尽きたかわさんが、どこでどうしていたのか……。1年前から市の生活保護を受けながら、アパートの一角でまさに身も心も(細々)と暮らしているのだ。そして再び、顔面蒼白状態になり、小さく細い体を支え守るように外にはほとんど出ないで窓も締め切った生活をしている。再び(死に向かう人)化してしまったのだ。

左から、なたね、みやちゃん
―ムーンビレッジ住人の姉妹(前回の写真、アクセサリー作家エバの4人の子のうちの二人)―

 二人同時に(痴呆展開)してしまったボクの両親の介護をするために岡山の吉備路に戻ってきたボクは、PAIからのお土産をもってかわさんを一年ぶりに訪ねてみた。毎日不安で眠れないので睡眠薬を常用し、医者からは「軽度の狭心症」と診断されながらも「オレ、またタイに戻りたいよ」と、現実は(死に向かう人)なのに本能は(生に向かう人)の笑顔を見せていた。
 国からいろいろな介護サービスを受けられる介護保険は、要介護1から5までの認定があれば保険証をもらえる。ボクの81歳の父は中程度の介護が必要な要介護3、76歳の母は部分的な介護が必要な要介護1の認定。二人とも介護が必要と認められたのだけど、介護保険のないかわさんのほうが要介護度が高いような気がしてならない。
 11月10日から一ヶ月以上も入院していた両親の世話をしてくれていた50歳になる弟が、今日12月28日に疲れきった不安な顔で東京に帰っていった。12月15日にPAIから岡山の吉備路にやってきて、掃除をしたり食事を作ったり両親を元気づけていた愛妻はるかと太一も、12月26日(この日はボクらの結婚一周年記念日!!!)に故郷長岡に里帰りしてしまったし、いよいよボク独り、だ。そして両親と長男のボクとの3人生活が始まった。みんな年をとってしまったけど、ボクが生まれたころの1950年代後半、50年前の生活に逆戻りして、(死に向かう人)と(生に向かう人)とのイノチのセッションが始まった。どうなることやら2008年、オタノシミ。先の見えないエクスタシーを味わいながら、ミナサン、2008年もよろしくね。

 毎日のおしめ洗いから、毎日3度の食事作りに展開したアホとろんより。

とろん・・・1969年高校卒業直後、フランス郵船に乗ってインドに上陸し地球放浪を始める。帰国後、専門学校、大学、夫などを中退しながらも、旅と文筆とライブ活動を続行し、今に至る。著書に『純粋単細胞的思考』『まるだしのエクスタシー』『とろんのダイジョーぶ経典(スートラ)』(共に、晩聲社刊)があり、この3年間は『とろんのPAI通信』を(なまえのない新聞)に連載中。2001年、50歳のときにタイのPAIに流れ着き、MOON VILLAGEという村つくりを展開しながら、(くるくるPAIバンド)を率いPAIでライブ活動中。

【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】第28回

鈴木邦男→和多田進

憲法改正論をめぐって

 学生時代、僕は右翼暴力学生でした。全共闘の諸君と毎日、論争し、殴り合いをしていました。天皇制、防衛問題、日本文化……などについて真向から対立し、キャンパスで激論していました。それを一般学生が見ていました。「そうだ、そうだ!」とか、「ナンセンス!」とか、声を掛けていました。
 自衛隊が必要かどうかを論争していた時、右翼学生がいきなり全共闘を殴りました。「何をするんだ!」と全共闘は殴りかかって行きました。その時、右翼学生、少しも騒がず、「ほら見ろ。君だって、殴られたら反撃するだろう。だから軍備は必要なんだよ」と言っていました。
 全共闘が、「自衛隊はいらない。どこに攻めてくる国があるんだ」と言っていた時でした。「攻める国はここにいる」とばかりに右翼学生は殴ったのです。荒っぽい理屈ですが、まわりの一般学生は大笑いし、拍手していました。
 又、ある時、やはり防衛問題の話になり、右翼学生は又もや殴りつけようとしました。その瞬間、全共闘はパッと身をかわし、二、三歩うしろに下がりました。その時、右翼学生は「人間は危険を察して逃げる事が出来る。それは足があるからだ。でも、日本列島には足がない。身をかわすことも、逃げることも出来ない。だから自衛の軍隊を持つしかないんだ」と言っていました。ウーン、見事な論理だと感動しました。今思うとただの詭弁かもしれませんが。ともかく、面白い右翼学生が多勢いました。今も元気だと思いますので、テレビの討論番組に出てほしいものです。「朝まで生テレビ」や「TVタックル」に出て、いきなり殴りつけたら大騒ぎになるでしょう。口だけ達者な連中をやり込めてもらいたいと思います。
 学生時代の「左右激突」は、いわば、新人獲得の「演武会」のようなものでした。これを見て、一般学生は全共闘や右翼に入ったものです。三島事件(1970年)で三島と共に自決した森田必勝氏も、この「演武会」を見て右翼学生運動に入りました。

道28・ローマ(写真・WATADA)

 全てにおいて左右両翼の学生は対極にあり、激論し、殴り合いをしていました。ただ、不思議なことに憲法問題については、「改憲反対」であり、一致していました。内容では反対なんですが、表面のスローガンでは全く同じでした。
 当時、僕は「生学連」(「生長の家」の学生部)に入っていました。「生長の家」は宗教団体ではありましたが、愛国運動にも熱心でした。「生長の家」の創始者の谷口雅春先生は、「明治憲法復元改正論」者でした。つまり、今の憲法は占領下にアメリカが押しつけたものだから無効だ。これがなくなったら、本来の明治憲法(大日本帝国憲法)がある。春になり、雪が溶けたら、その下からは大地があらわれるのと同じだ。と言っていました。
 今の憲法は偽物だ。無効だ。それにもかかわらず、この憲法を改正すればいいという人間がいる。これが一番悪い。だから、「9条改正論者」などは認めない。そういう理屈でした。
 「9条などを部分的に改正することは、それ以外は全ていいと認めることだ。偽憲法を追認することになる」と言っていました。
 「憲法改正論者は護憲論者よりも悪い!」とまで言っていました。
 今からは信じられないかもしれませんが、「明治憲法復元論」、そして「復元改正論」は当時、右の世界では、かなり普及していたし、力を持っていました。谷口先生以外にも菅原裕、井上孚麿(たかまろ)といった学者も本を出し、「復元」の運動もかなりありました。岡山県奈義町では町議会で「明治憲法復元」を決議したことがありました。
 右翼学生運動も、この影響をモロに受けて、「明治憲法復元!」「正統憲法復元!」をスローガンにしていました。全てがそうだとは言いませんが、多いことは事実でした。何十年か後に、学生運動の歴史を書く人は、「あらゆる面で対立した左右の学生運動だが、『憲法改正反対』については一致していた」と書くかもしれません。
 そして今、気付きました。自民党の改憲案が出てくるにつれ、右の側(改憲論者)からも反対の声が出始めています。「愛国心を強制する改憲には反対だ」と小林節先生(慶応義塾大学教授)が言っていますし、「アメリカの傭兵になる改憲には反対だ」と小林よしのりさん(漫画家)は言っています。僕も再び、「改憲反対派」になっています。少なくとも、自民党の今の改憲案には反対です。歴史は繰り返すということでしょうか。正月からそんなことを思いました。

2008年1月7日

著者近影

すずき・くにお…1943年福島県生まれ。67年早稲田大学政治経済学部卒業。70年同大学院政治学専攻科中退。70―73年サンケイ新聞社勤務。72年「一水会」設立、代表。99年同顧問。著書に『新右翼―民族派の歴史と現在』(彩流社)、『夕刻のコペルニクス』(扶桑社)、『言論の覚悟』(創出版)、『公安警察の手口』(筑摩書房)、『愛国者は信用できるか』(講談社)など。

インフォメーション ポータルサイト「北海道人」更新情報

北海道人特集「となりの北海道人」を更新しました

今回は新年にふさわしい、タンチョウのタンさんとそのお父さんの話です。

子煩悩で長寿の血筋は脈々と
〜「私のお父さん」in 釧路市丹頂鶴自然公園〜

 全長約140センチ、翼を広げると240センチにも達するタンチョウが、青く晴れ渡った空を飛ぶ姿は壮麗で雪原に舞うさまも格別に美しい。日本では北海道東部などに生息し、一時絶滅の危機に瀕したが、地元の人々の保護活動などにより、個体数約1,000羽を数えるにいたっている。釧路市丹頂鶴自然公園(通称:鶴公園)でタンチョウの人工ふ化・飼育を成功させるなど、半世紀にわたりタンチョウの保護・増殖に尽力する同園名誉園長の高橋良治さんにタンチョウの特性について伺った。

つづきはこちらから
北海道人特集「となりの北海道人」

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