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『メルマガ北海道人』第154号 2010.1.21.配信―「北海道人」、街の雪山―

 塵も積もれば山となり、雪も積もれば山となります。先週末に降った雪のおかげで、道路の脇には大きな雪山が出現しました。大人の背丈以上もある山が道路幅を狭め、二車線が一車線になり、道路は渋滞。ゆっくり進むバスにゆられながら雪山見物をしていると、こんなことが思い浮かびました。道路の脇の雪山が全部かまくらになったら……。夜になると灯がともされ、仕事帰りにそのなかでお酒を飲んで、気分が良くなったところで別のかまくらにはしごして、知らない人と話がはずめば冬のつらさも吹き飛ぶことでしょう。そんな妄想に駆られてしまう雪の日の北海道です。
 『メルマガ北海道人』第154号、雪道を運転するドライバーの皆さん本当にお疲れ様です、配信!

もくじ

連載【上林早苗の『上海日記』】

 これまで中国の雑誌をほとんど読んだことがなかったという上林さんですが、いま中国では毎月のように雑誌が創刊されていて、最近はいいと思える雑誌が少しずつ増えているそうです。中国人による初の雑誌から最近のものまで、中国雑誌の歴史がわかります!

連載【とろんのPAI通信】

 「10年後、ね、とろん、10年後に、あちこは、あなたのベイビーを宿したいとおもってます。」というドキッとさせられるACHICOさんの手紙からはじまる今回のPAI通信。とろんさん、いったいどうなってるんですか? と思いながら読まずにはいられません。

連載【若月元樹の『南の島から――沖縄県黒島の日々』】

 新年早々、大きな竹をもらってはしゃいでいたという若月さんは、以前からやりたいと思っていたことが実現したそうです。竹を使って流した何か……4日に流し、8日にも流したというそれはいったい。第48回は「夏を先取り」です。

【上林早苗の『上海日記』】 第74回

中国の雑誌

 恥ずかしながら、これまで中国の雑誌というものをほとんど読んだことがなかった。おもしろい雑誌を読みたいと思って、中国の友人におススメの雑誌を聞くのだが、たいていは『瑞麗(RAY)』や『昕薇(ViVi)』『米娜(mina)』『服飾与美容(VOGUE)』などという答えで、ほとんどが海外からの翻訳版。あまり読む気になれず、街の雑誌スタンドに足が向かなかった。しかし、最近はいいと思える雑誌が少しずつ増えてきた気がする。
 廃刊雑誌が続出する日本とは逆に中国ではいま、毎月のように雑誌が創刊されている。いま定期刊行物の総数は約1万誌超。内容からデザインや印刷まで雑誌というより書籍に近いレベルの『生活』や、社会現象や流行を検証する『城市画報』など見ごたえのある雑誌が目につきはじめた。ほかにどんな雑誌があるのか、今までどんな雑誌があったのかをあらためて調べているうちに、中国雑誌の意外な歴史にたどり着いた。
 中国人による初の雑誌『中西近事匯編』が創刊されたのはアヘン戦争も終わった1884年のことだったとされる。つまり中国の雑誌は中国を手中に収めようとした欧米列強によってもたらされ、租界のあった上海を中心に発展していった。
 オールド上海時代の雑誌を何冊か見ると、本当に驚かされる。とにかく内容も写真も自由で生き生きとしているのである。特に1935年の『中華』や1941年の『上海生活』はまるで日本の女性週刊誌だ。最新のチャイナドレス着こなし術、旬のセレブを取り上げた「女性活躍」のコーナー、小学校運動会レポート、巻末には連載漫画までついている。広告も凝っていて、下痢薬やわきの消臭オイル、カメラフィルムなど生活用品が美女の写真やイラスト付きで宣伝され、あるマニキュアの広告にいたっては無料試供品の申込表まで記載されている。当時の人びとの暮らしが目に浮かぶようだ。

健康運動をする夫婦(魯迅公園)

 広告費がいくらか気になって、巻末をめくってみた。表紙の広告料が300大洋、紙面1ページが100大洋とのこと。インフレなどで価格変動はあるが、1大洋が今でいう人民元約200元ほどの価値だったといわれているから、6万元(約100万円)ほどだろうか。雑誌が広告媒体としても成熟していた証拠だろう。
 また当時の広告コピーもおもしろい。
 「少年備蓄せずば、老いて悲し」(上海中孚銀行)
 「お隣の胡くん、アンタほんとにチビなのね。お母ちゃんにスコットのスズキ肝油液を飲ませてもらいなさい。でないと、遊んでやんないわ」(スコット社の栄養補助液)
 中国各地で戦火が激しくなっていたころの雑誌とは思えない平和な誌面である。
 新中国が成立すると、すべての雑誌が国のものになり、中国の雑誌界はたちまち衰退した。1935年に398誌あった上海の雑誌は、文化大革命がはじまると激減し、1971年にはなんと1誌に。全国でも約20誌がわずかに残るだけとなったという。
 雑誌が再び日の目を見たのは改革開放の年、1978年のことだ。総合誌や文芸誌、グラフ誌、ビジネス誌、社会科学誌が相次いで誕生し、1978年からのわずか3年間、上海だけでも新たに224誌が創刊された。知的生活から長い間隔絶されてきた人びとにとって、雑誌は自由の時代を予感させるひと筋の光だったと思う。
 こうした歴史を知った上であらためて雑誌スタンドにあふれかえる刊行物を眺めると、なかなか感慨深いものがある。一時は20誌にまで落ちこんだ中国の定期刊行物はいま約1万誌。インターネットメディアが発達した今なお増えつづけている。そして、私たちが中国で四苦八苦してつくっている日本語雑誌もまた中国の雑誌史の片隅にあるのだと思うと、ささいな衝突で解散だ廃刊だと騒ぐことがバカバカしくなってくる。中国の出版界は内容が厳しく規制されており、中国人のホンネが読める雑誌はまだほとんどないが、これからどんどんいい雑誌が増えていけばと心から思う。

かんばやし・さなえ・・・1978年生まれ、奈良出身。京都外国語大学中国語学科卒業。上海在住9年目。中国人の夫と姑との3人暮らし。

【とろんのPAI通信】 第67回

魅惑なるイノチの恩人 (後編)

 10年後、ね、とろん、10年後に、あちこは、あなたのベイビーを宿したいとおもってます。「イデンシ」的にあなたの「生きた証」と「血」を残したいし、それがあちこの役目ならば喜んで。それに、あなたとベイビーと「家族」をつくりたいとおもう。「2人で一緒に刻むもの」から「3人で一緒に刻むもの」への夢と希望、かな。最近、あちこのココロの中にどこからともなく生まれたこの気持ちを、ひっそりとあなたに伝えます。きっとステキなベイビーが育つとおもうし、きっと世界中を「あっ」と驚かせるファミリーがつくれるとおもうよ。10年って遠い?近い?でもあっという間だよー。それに向けて、とろんはせっせといいオトコになること!あちことベイビーを受け止めれるようなオオキナ器になること!ね。

 21世紀に突入し、50歳を迎えたとたん、ボクはインドのベナレスの聖なる階段で躓き転び右足首を骨折し、20歳になったばかりのACHICOに2カ月間看病してもらったあと、独りでベナレスを出て、タイのPAIに流れ着いた。
 一等最初に4カ月間住んでいたお気に入りの川沿いのバンガローが、満月の洪水で流され、その勢いでPAIを出ようとすると、ほかにもっと魅惑的なバンガローを発見して、さらに4カ月住むことになったり、バンガロー生活に飽きてきてPAIを出ようとすると、可愛い一軒家を貸してくれる人が現れたり、一軒家でのフツーの生活の物足りなさにいらだってPAIでの限界を感じていたら、「オレの山に家を建てて自由に使っていいよ」という地元のおまわりさんが出現したりして、PAIを出ようとすると何かがボクの前に出現展開し、PAI脱出を阻止され、PAIに辿り着いて1年と数カ月経ったころには「ムーンビレッジ」という村づくりをはじめるハメになってしまった。
 これはもう、自分の意志なんかじゃなくって、何者かに仕組まれたような強い引力に巻き込まれてるって感じだ。「PAIのわな、PAIトラップ」に嵌ってしまった!!のかも。

母性16 ACHICO再び(魅惑なるイノチの恩人、28歳の母、山水人の祭りにて)

 描き出しの文章は、2002年7月3日の半月に21歳のACHICOが、PAIでの運命に翻弄されていたボクに向けて送ってくれた手紙の抜粋で、ちょうど「ムーンビレッジ」をはじめようとするころだった。そして今、2010年1月。あ!!っという間に7年半が経ってしまった。
 その「ムーンビレッジ」も6年後、何者かに売却されたかとおもうと、強い成り行きで3倍も広い「NEW MOON VILLAGE」へと展開し、ムーンビレッジのセンターであった「六角堂」が、今、山の中の川沿いに再建されはじめている。2012年12月から108日間の祭り「たましいのかくじっけん」第2弾に向かっての「想い」が湧きふくらみ、ひとりでに「形」になって展開してゆく。そして、ACHICOの送ってくれた「10年後ベービー宣言」成就の日が刻々と迫ってくる。2012年の7月3日が「10年後宣言」成就の日だ。あと2年半、「たましいのかくじっけん」第2弾がはじまる直前、果たしてこの「10年後宣言」はいかに展開成就されるのだろうか??? マヤ暦の最終日も2012年12月だし、わくわくドキドキの2012年が迫りくる日々。
 ボクは、この魅惑なるイノチの恩人、ACHICOからの「10年後宣言」に喜び振り回されながらも、何故だか、この強い引力の定めからモガキ脱出し、他の方向、角度に突破口を捜し求めていて、運命のギリギリの危うさの極点上で愛妻はるかと遭遇したのだ。そして太一が産まれた、と思ったらACHICOも懐妊し、今、魅惑なるイノチの恩人は28歳の母(写真)となり、ボクらと同じ3人家族で、「3人で一緒に刻むもの」への夢と希望で幸せいっぱいに暮らしている。「この娘、太一と結婚しちゃうかもね♪」と、うやむやとボクに語る魅惑なるイノチの恩人、ACHICO。「おもしろくって、おかしくって、HAPPYになれる」というボクのSPACE観は、彼女から伝授されたもので、今後の祭りやSPACE作りのテーマとして存続してゆくだろう。
 この危うくて謎めいた2012年、なんでもありのOPENしきったこのボクに、いったい、何が起き産まれようとしているのだろうか。わくわくドキドキ、この一本道、ど〜ん!!と、いこう♪

     罪断呆人???とろんより。

著者近影

とろん・・・1969年高校卒業直後、フランス郵船に乗ってインドに上陸し地球放浪を始める。帰国後、専門学校、大学、夫などを中退しながらも、旅と文筆とライブ活動を続行し、今に至る。著書に『純粋単細胞的思考』『まるだしのエクスタシー』『とろんのダイジョーぶ経典(スートラ)』(共に、晩聲社刊)があり、この3年間は『とろんのPAI通信』を(なまえのない新聞)に連載中。2001年、50歳のときにタイのPAIに流れ着き、MOON VILLAGEという村つくりを展開しながら、(くるくるPAIバンド)を率いPAIでライブ活動中。

ホームページ:http://amanakuni.net/toron/

【若月元樹の『南の島から――沖縄県黒島の日々』】第48回

夏を先取り

 新年早々、以前から流しそうめんをやりたいと思っていた私は、大きな竹をもらってはしゃいでいた。
 持ち帰った竹を4日には割って節を取り除いていた。作業も終盤にさしかかったころ、じっとしていられなくなって「たま商店」へ走り、そうめんを購入し、初流しそうめんを実施した。おそらく今年に入って流しそうめんをした人は日本でもほとんどいないであろう。こうして私は新年早々、夏を先取りしてしまった。
 8日にも流した。おそらく今年に入って2回も流しそうめんをやった人は稀であろう。この日のきっかけは、東京の大学から実験をしに来ていたナマコ研究者らに、4日にやった流しそうめんのエピソードを酒宴で話したところ、「明日やろう」と盛り上がり、開催したのであった。ちょうど研究所の展示を見ていた観光客にも声をかけたら喜んで参加してきた。
 この日は最近海で獲れはじめた「アーサ」と呼ばれる海藻もそうめんと一緒に流した。観光客は大喜びだった。雪の積もる富山から来たそうで、流しそうめん自体も生まれてはじめてとのことだった。喜ぶ観光客に対し、「流している水は西表島から海底を通ってきている」、「一緒に流しているアーサはつい先ほどまで海岸で光合成をしていた」などと説明しながら、流しそうめんの楽しさを自身が改めてかみしめていた。
 実は私は流しそうめんで失敗したことがある。ヤンバルとよばれる沖縄本島北部のきれいな川の上流で、川の中に石を並べて水路をつくり、直接そこにそうめんを流そうという壮大な企画をしたことがあった。

たま商店の限られた売り物の中で充実のラインナップと在庫を誇るそうめん

 河原でそうめんを大量にゆで、水に浸かりながら水路沿いに箸を持った友人たちが並んだところでそうめんを流しはじめた。ところが、そうめんは流れなかった。水底や側面の石に次々とくっついてしまったのだ。箸は役割を果たさず、石についたそうめんを直接手ではがしてはつゆにつけて食べていた。手で食べるそうめんには情緒のかけらもなかった。やはり、そうめんは竹に流すものなのだという先人の教えを、このとき私は脳裏に焼き付けた。
 さて、黒島で竹を調達するのはなかなか難しく、竹の入手は私の密かな願いであった。一方、そうめんは簡単に手に入る。品揃えが豊富とは言えない「たま商店」においても、そうめんは数種類陳列されているのである。沖縄はそうめんの生産地ではないが、消費地なのである。沖縄におけるそうめんの最も一般的な利用は、「そうめんちゃんぷるー」であると私は認識している。ゆでたそうめんと一緒にネギなどを入れて炒めるのである。定食の定番メニューでもあり、居酒屋における定番のつまみでもある。私はほとんど料理をしないので偉そうなことは言えないが、「そうめんちゃんぷるー」は意外に難しい。下手をすると麺がくっついてしまうのである。ポイントはふつうに食べるよりも早く、麺が堅いうちにゆでるのをやめてから炒めるそうだ。
 そもそもなぜそうめんが沖縄で広く普及し、「たま商店」においてもいつでも買えるのかというと、保存が簡単であるからということだ。「そうめんちゃんぷるー」と肩を並べる定番メニューに「ふーちゃんぷるー」がある。「ふー」とは「麩」のことである。その「麩」も、そうめん同様に冷蔵庫不要の保存に長けた食材なのである。ちなみに「ふーちゃんぷるー」の「麩」は沖縄で生産されている。余談であるが私は「ふーちゃんぷるー」が好きだ。
 さらに余談をつづけると、沖縄の海で獲れないにもかかわらず、日本一の消費量を誇る食材がある。昆布である。昆布の歴史は、薩摩藩の琉球侵攻とも大きな関係があり、沖縄産の砂糖が出ていった代わりに北海道産の昆布が入ってきたということだ。その結果、北海道産の昆布も、そうめん同様、容易に手に入るのである。

著者近影

わかつき・もとき・・・1974年広島県生まれ。沖縄国際大学大学院地域文化研究科修了。高校まで広島で過ごした後、沖縄の祖母の家へ移り住む。大学卒業後、そのまま沖縄でサラリーマンになったが、遊び足りなくて退職。大学院へ行ったはいいが、みんなまじめに研究していて衝撃を受ける。現在は八重山諸島の黒島にあるNPO法人日本ウミガメ協議会の附属研究所・黒島研究所でウミガメや島の人々らと戯れている。

黒島研究所ホームページ:http://www.kuroshima.org/

次号予告

 次号の配信は1月28日(木)です。漫画『DEATH NOTE』の主人公・夜神月(やがみライト)の命日が2010年1月28日だそうです。命日が未来って不思議な感じです。
 さて、次号のメルマガラインナップは、岩崎稔の「大陸人の時間」、橋場了吾の「SAPPORO MUSIC LETTER」、和多田進の「濡れにぞ濡れし」です。お楽しみに!

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