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『メルマガ北海道人』第152号 2010.1.7.―「北海道人」、新春シャンソンショー ―

 新春と言えばそのあとにつづくものは何でしょう。かくし芸大会も捨てがたいですが、やはりシャンソンショーでしょう。新春にではありませんが、歳の瀬にシャンソンを聴く機会がありました。すばらしい歌声は年が明けても耳に残っています。そんなこともあり、新春シャンソンショーです。年明け第一回目のメルマガタイトルにこの難易度の高い早口言葉を選ぶなんて、2010年への意気込みが早くも伝わってしまうのではないかと、ドキドキしています。
 「新春シャンションショー、アレッ? 新春サンションショー、アラッ? 新春サンソンソー、ムムム……」。ハードルは高ければ高いほど燃えあがる! 今年の暮れまでには新春シャンソンショーと言えるようになりたいデス!
 『メルマガ北海道人』第152号、新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします配信!

もくじ

連載【上林早苗の『上海日記』】

 「上海日記」第73回は、「同居はエラい?」です。結婚8年目、姑さんと同居していることを中国の人に言うと、「エラいですね」と感心されるという上林さんですが、何がエラいのか「?」のよう。中国の母と息子の関係は? 上林さんの姑さんに全世界の既婚女性から熱いラブコールが寄せられること間違いなし!

連載【とろんのPAI通信】

 「自分の『想い』が『形』に成りゆくには、まず時が熟すこと、そして、物事がgood&GODなタイミングで善悪美醜上下左右前後を超えて美しく?? 展開してゆくことが不可欠だろう。」。PAIから届いた「とろんのPAI通信」第66回は「魅惑なるイノチの恩人(前編)」です。

連載【若月元樹の『南の島から――沖縄県黒島の日々』】

 黒島には、「豊年祭」で使用される爬龍船(はりゅうせん)と呼ばれる木造船があるそうです。古くなったその船を新造するため、「木を切りに行くぞ」と大晦日に借り出された若月さん。「南の島から――沖縄県黒島の日々」第47回は、「年末年始に思ったこと」です。

【上林早苗の『上海日記』】 第73回

同居はエラい?

 結婚8年目になるが、姑と同居していると中国の人に言うと、いまだに「エラいですね」と感心される。表情と口調から皮肉でなく本気でほめられているらしいことはわかるので、反射的に「そんなことは……」などと照れたりしてきたのだが、正直言うと同居のなにが「エラい」のかイマイチ理解できていなかった。経緯はよく思い出せないけれど、結婚のずいぶん前から姑と同居していたし、彼の弟やいとこ、親友など長期滞在の「食客」が入れ代わり立ち代わりでいつもいた。私の神経がよっぽど鈍いのか、それとも年頃の女性としての自覚が足りなかったのか、とにかくいつだれが同居人になっても気にしなかったし、むしろ中国の人たちとの共同生活をおもしろがっていたように思う。
 だから、あらためて「同居なんてエラいですね」と言われると、いつも妙な気分になった。義母は一年365日、食事・洗濯・掃除・買い物を完ぺきにこなし、手製弁当は昼と残業用の2食分を持たせてくれる。疲れたと言えば夕食に烏骨鶏のスープが出てくるし、ストッキングが破れたと言えば翌朝には新品がタンスに入っている。冬の深夜に帰宅するとホカホカの湯たんぽが布団に入っていて、エラいのはまちがいなく義母なのである。
 しかし、世間一般の嫁姑関係というのはどうもそうではないらしい、ということがようやく最近わかってきた。結婚ラッシュを迎えた同年代の中国人女性や、私のように中国人に嫁いだ日本人女性に話を聞くと、どうも義母との折り合いが悪いというのだ。

上海提籃橋監獄前でネギ焼きを売る夫婦(長陽路)

 たしかに中国は日本以上に母と息子のつながりが強い気がする。街では母と腕を組んで歩く20代、30代の息子をよく見かけるし、誕生日カードなどのメッセージでは「我永遠愛媽媽(永遠にママを愛してる)」なんて言葉も出てくる。一方、母にとってはもとよりたった一人の血を分けた子、それが異性で跡継ぎとなれば、かわいくないわけがない。結婚となれば手塩をかけて育てたその宝物が見知らぬ女性と自分以上に親密になるわけだから、その心情はさぞ複雑だろう。ましてや同居となれば価値観や生活習慣、方言、食べ物の好み、金銭感覚が違う。嫁は姑の作る油っこい料理が耐えられず、姑は嫁の洗濯物のたたみ方が気に食わない。夫は母の肩を持っても、妻を擁護しても角が立つから沈黙を守る。よく見る日本のメロドラマのようらしい。しばしば私が「エラい」とおほめにあずかるのは、中国人同士でさえも嫁姑問題は難しいのだから、生活習慣がまったく異なる日本人妻としてはさぞかし苦労していることだろう――という意味だったらしい。
 そう言われてあらためて考えてみると、我が家の場合、日本人妻だからこそ得をしている部分が多い。なにしろ私と義母の関係は「嫁姑」の前に「異国の人」だった。コミュニケーションに不自由しないのはたまたま私が中国語を専攻していたというだけで、本来は「こんにちは」「さようなら」でさえ通じない間柄であり、共同生活をするにはまず「中国料理は食べられるの?」「箸は使える?」というレベルのことからわかり合わなければいけない未知の存在である。一切の価値観を共有しない二人に、紅焼肉(豚肉の角煮)の塩加減や息子(夫)からの愛情度を争う余裕があるはずもなく、ひたすら互いの生活習慣を観察しているうちにいつのまにか10年の月日が過ぎていた。もちろん、いまだに金銭感覚や習慣の違いを発見することはある。しかし、決まって「育った国が違うもんね」という暗黙の結論に行き着くため、二人で日中文化の違いに驚くことはあっても、不快になったり、ましてや言い争いになったことは一度もなかった。もしかしたら、義母のほうには不満や我慢があったかもしれないけれど。
 日本人に嫁いだことはないのでエラそうなことは言えないが、実は日本人同士、中国人同士も同じことじゃないかと思っている。嫁と姑はまったく別の環境で育った、血のつながりも恩も義理もない人間だ。単に「愛する人の母親(妻)だから」「同じ国の人だから」という理由でそう簡単に価値観が一致するわけはない。だったら、はなから「未知の世界の人」として嫁や姑に向き合えば、小さなことに腹が立ったりせず、未知の世界への探求も楽しめて一石二鳥だと思うのだけれど、どうだろうか。

かんばやし・さなえ・・・1978年生まれ、奈良出身。京都外国語大学中国語学科卒業。上海在住9年目。中国人の夫と姑との3人暮らし。

【とろんのPAI通信】 第66回

魅惑なるイノチの恩人 (前編)

 自分の「想い」が「形」に成りゆくには、まず時が熟すこと、そして、物事がgood&GODなタイミングで善悪美醜上下左右前後を超えて美しく?? 展開してゆくことが不可欠だろう。
 ボクは30代後半から、何故だか異常にインドのベナレスに惹きつけられ、そこで何度も何度も壊されては阿呆のように通いつづけていた。そしてそのころから、ボクの50歳の誕生日を是非ともベナレスで迎えたい! 21世紀の夜明けを是非ともベナレスのガンジス河から拝みたい!! という二つの信仰のようなものが産まれ膨らみつづけていた。そしてそれは、2001年1月1日の初日の出! 同じ1月の26日にボクの50歳の誕生日!! と、まとめて連続してやってきて、ボクの長年の「想い」が一気に成就された。
 21世紀直前、50歳直前のボクは、今まで日本でやってきたことや人間関係など全てが限界に達し切っている一方で、インドのベナレスに移住しよう!! という強い意欲が湧き起きていた。おまけに2度目に結婚して10年共に生活した相手に好きな男ができて、またもや捨てられてしまったのだ。恐ろしくも美しく時熟し、good&GODなタイミングがやってきたのだ。
 タイのPAIに住みはじめて9年になろうとしているのだけど、昨年11月8日の母の死のタイミングで、この2年間の日本での両親の介護生活も新たなる展開を迎え、残された痴呆の父をグループホームに預かってもらい、2カ月の「冬休み」をとって、今、太一の産まれ故郷PAIに戻ってきている。
 9年前の春、インドのベナレスからタイのPAIに流れ着き、時熟し、good&GODなタイミングで「ムーンビレッジ」という村づくりがはじまったのだけど、その村の中心は「大六角堂」だった。100年以上も前に建てられた2階建ての米の貯蔵庫の太くってデカイ八角柱の柱6本を使って建てたもので、この「大六角堂」でライブやワークショップをしたり、ボクらの結婚式もした。そして、6年間住んだ「ムーンビレッジ」も、時熟し、good&GODなタイミングで何者かに売却され、そのタイミングを待っていたかのように、その3倍も広くって電気もない山奥の新天地に「NEW MOON VILLAGE」を再建するハメになってしまったのだ。

母性15 ACHICO(魅惑なるイノチの恩人、山水人の祭りにて)

 そして、太一の産まれた我が家もそのまま解体移築し再現できたのだけど、ずっと気になっていたのが「大六角堂」の100年以上も前の重くって長い柱六本だ。解体してもってきたのはいいけれど、広い土地のどこに建てたらいいのかも決められないまま、建てよう! 建てたい!! という意欲も湧かないまま、2年以上も我が家の側の大地に放置されていたのだ。
 ベナレスで50歳を迎えたとたん、時熟し、good&GODなタイミングで、20歳に成ったばかりの魅惑のACHICOがやってきて喜んでいると、数日後の新月の早朝、ボクが独りで日の出を拝むためにガート(沐浴するために河に向かって降りる階段群)を歩きはじめたとき、時熟し、good&GODなタイミングで全ベナレス中がパ!!っと停電し、突如と「一瞬先は闇」の世界に巻き込まれ、その聖なる階段で躓き転がり落ち、右足首をゴキ!!っと骨折してしまったのだ。
 日本でやってきたことや人間関係などの全てに飽き、パートナーにも捨てられ、「もう、オシマイかもしれない!!」という予感もあって、そのボクをぽい!! と捨てた彼女を死亡時の受取人にして旅行保険に入っていたので、動けぬボクを2カ月間も看病しつづけてきてくれたACHICOに看護費のようなものが保険から下りることになったのだ。ボクにとっては大金!! のその保険料を受け取ったACHICOは「このお金でベナレスを出て、どこか他に新天地を見つけたらいいよ」といって惜しげもなくボクにくれ、ボクのもとを去っていってしまったのだ。そして、新天地PAIではACHICOと手紙をやり取りしてゆく中で、「ムーンビレッジ」という村づくりが彼女のくれたお金ではじまり、ダメになりそうな不安定なボクをずっと支えつづけてくれた、魅惑なる20歳のイノチの恩人。
 12月11日にPAIにやってきて、12月19日から、時熟し、good&GODなタイミングで「大六角堂」の再建がはじまってしまった。100年以上の歴史が刻まれた八角柱の巨大な柱六本が、この新天地の大地と一つになり、今、天に向かって聳え立った!! そして同じ19日の日、日本では、痴呆の父がグループホーム内で癲癇をひき起こし倒れ、今、スタッフも驚くほど急速に痴呆度が進みはじめている、という。時熟し、good&GODなタイミングで、この先、何がどう展開して、ボクをどこに向かわせゆくのだろうか???

 2010年1月21日フライト予定の、とろんより。

著者近影

とろん・・・1969年高校卒業直後、フランス郵船に乗ってインドに上陸し地球放浪を始める。帰国後、専門学校、大学、夫などを中退しながらも、旅と文筆とライブ活動を続行し、今に至る。著書に『純粋単細胞的思考』『まるだしのエクスタシー』『とろんのダイジョーぶ経典(スートラ)』(共に、晩聲社刊)があり、この3年間は『とろんのPAI通信』を(なまえのない新聞)に連載中。2001年、50歳のときにタイのPAIに流れ着き、MOON VILLAGEという村つくりを展開しながら、(くるくるPAIバンド)を率いPAIでライブ活動中。

ホームページ:http://amanakuni.net/toron/

【若月元樹の『南の島から――沖縄県黒島の日々』】第47回

年末年始に思ったこと

 黒島には、夏に実施される黒島最大の行事「豊年祭」で使用する爬龍船(はりゅうせん)と呼ばれる2隻の木造船がある。この船に集落ごとに乗って儀礼的な漕ぎをしたり、集落対抗の船漕ぎ勝負をしたりする。
 豊年祭は八重山各地で盛大に開催されているものの、船漕ぎをするのは珍しい。他の地域では別の行事で船漕ぎが実施されている。また、船も他の島々ではサバニと呼ばれる幅の狭いものを使用しているが、黒島のは伝馬船とか和船と呼ばれる船に似ていると言われ、船幅が広いことが特徴である。
 なぜ黒島だけ船が特別なのかとずっと疑問に思っていたが、最近、八重山の文化に詳しい専門家に教えてもらったところ、他の島々もかつては黒島と同様な船だったそうだ。ところが、いつのまにか地元の漁師が一般的に使用されていた普及型であるといえるサバニに変えてしまったのだという。今から約30年前に新造した時も、従来通りの船形にしたことで、黒島の船は独特なものとなった。たぶん、良いことなのではないかと思う。
 最近、その船を新造しようという動きがある。現在使われている船は傷みが激しく、木が腐っている部分も散見される。メンテナンスのために塗料の上に塗料が重ねて塗られつづけたこともあり、船が重くなってきた。そして、そこに乗る漕ぎ手たちも、貧しい時代からメタボという言葉が生まれる時代となり、総重量が増した。ここ数年の豊年祭ではいつ沈没するか冷や冷やしていた。昨年の船漕ぎでは衣装の下にこっそりライフジャケットを着用していた泳げない漕ぎ手もいた 。

次々と木を切る林業科出身の島民

 現在、新造に向けた下準備の取り組みがはじまっている。2隻で500〜600万円かかる費用は、期成会を発足させて寄付を集めるという。12月に入り、依頼する船大工が決まって下準備も大詰めを迎えた。船大工からは、船で使う木材の一部が入手困難だが、黒島にはたくさん生えているので、島から調達できないかとの提案があった。その部材が入手できたらその分を値引きするということだったので、黒島側は島で調達することを約束した。
 大晦日の朝、「木を切りに行くぞ」という突然の電話で借り出された。あれが良いこれが良いといいながら木を見てまわった。これを切ってはどうかという木が見つかったので、私が持ち主に許可を得ようと主張したら、「切ってから言うさ」と言われた。幹周りが1メートル前後の木を切って事後報告というのは心地悪い。結局、他の場所も見てからにしようということになり、一緒に見てまわった公民館長の土地の木を切ることになってひと安心した。
 木はチェンソーを使って交代しながら切るが、なかなか切れない。チェンソーが小さいからだということになり、大きいチェンソーを持っている人を探した。結局、大きいチェンソーを持っている人はつかまらなかった。昼食を挟んで再び挑戦していると、高校時代は林業科だったという人が張り切ってやってきた。この人はいつもテンションが高いので、「今日も元気だな」程度に眺めていたところ、我々の3分の1程度のスピードで次から次へと切り倒していった。我々がチェンソーに濡れ衣を着せていたことが証明されてしまった。弘法チェンソーを選ばずといったところか。
 年が明けて2日、島では成人式が盛大に開催された。3名の新成人全員が女性だった。そのうちの一人は、将来は島に戻って畜産を継ぐために勉強中とのことで、すでに人工授精師やクレーンなどの資格まで取得済みだった。
 今でも、何か面白いことがあったら職を替えてフラっとどこかへ行ってしまいそうな私。高校時代は、青春は謳歌した気はするが、勉学に勤しまず、普通科で何の技術も身につけず、部活も化学部に入ったのに、体が大きいというだけで相撲部に拉致され、結局2つの部に所属して……。島の人を見て少し自分の生き方を振り返ってしまった年末年始だった。

著者近影

わかつき・もとき・・・1974年広島県生まれ。沖縄国際大学大学院地域文化研究科修了。高校まで広島で過ごした後、沖縄の祖母の家へ移り住む。大学卒業後、そのまま沖縄でサラリーマンになったが、遊び足りなくて退職。大学院へ行ったはいいが、みんなまじめに研究していて衝撃を受ける。現在は八重山諸島の黒島にあるNPO法人日本ウミガメ協議会の附属研究所・黒島研究所でウミガメや島の人々らと戯れている。

黒島研究所ホームページ:http://www.kuroshima.org/

次号予告

 次号の配信は、1月14日(木)です。多くの神社で正月飾りや古いお札、お守りなどを焼く行事、どんど焼きが行われるころです。どんど焼きに行くと、正月が終わったという感じがします。
 さて、次号のメルマガラインナップは、岩崎稔の「大陸人の時間」、橋場了吾の「SAPPORO MUSIC LETTER」、編集長・和多田進の「濡れにぞ濡れし」です。お楽しみに!

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