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『メルマガ北海道人』第148号 2009.12.3.―「北海道人」、新しい手帳を―

 角が丸くなり少し汚れた表紙の2009年の手帳――パラパラめくって一年を振り返ってみました。手帳には、取材する人の名前、打合せの予定、食事をした店、待ち合わせの場所、コンサートの予定、誕生日、病院や美容院の予約、釣りに出かけた川の名前、釣れた魚の種類と匹数、礼状、支払い、猫草・米・ケチャップなどこまごまとした買い物のことまでもが書いてありました。もし、だれかにこれを読まれてしまったら……と思うと、顔がボッと赤くなるほどの内容でした。
 手帳の余白ものこりわずか……みなさんはもう新しい手帳を買いましたか? 忘年会は未定なのに、なぜか新年会は決まっています。新しい手帳を早く手に入れて、予定を書き込みたい! そんな気分の12月です。
 『メルマガ北海道人』第148号、未来を書き込む紙の束だと思うと手帳ってなんてファンタスティック配信!

もくじ

連載【上林早苗の『上海日記』】

 「QQ」と呼ばれるインスタントメッセンジャーソフトは中国版のチャットツールだそうです。日本のMSNメッセンジャーと用途にそう違いはないそうですが、すごいのがデータベース量で、今年10月の時点で登録アカウント数が9億9000万! さすが中国! 中国のネット用語、ギャル文字のような火星語なんかも登場します。第71回は「神秘なるQQ世界」です。

連載【とろんのPAI通信】

 ホスピスで人生最後の時間を過ごしていたとろんさんのお母さんが、11月8日に亡くなりました。実の息子である弟さんが見守るなかで帰らぬ人となったお母さん。そこで弟さんは人生はじめての体験をするのですが……。第64 回は「産まれてはじめてのキッス♪」です。

連載【若月元樹の『南の島から――沖縄県黒島の日々』】

 黒島の公民館が資料を整理したところ、1960年代以降の事業記録簿が見つかったそうです。1972年、沖縄の本土復帰の年の資料もありましたが、そこには「復帰」の文字が見当たらないとのこと。それはいったいなぜなのでしょう。ここ50年間の黒島が見えてきます!

【上林早苗の『上海日記』】 第71回

神秘なるQQ世界

 インスタントメッセンジャーソフト「QQ」は中国版のチャットツールである。家族や友人とオンラインチャットができるという点では、日本でも普及しているMSNメッセンジャーと用途にそう違いはないのだけれど、さすが中国、データベース量がとにかくすごい。2009年10月の時点で登録アカウント数約9億9000万、同時オンラインユーザー数約8000万人。つまりユーザー検索、コミュニティ検索の機能さえうまく使いこなせば、いつでも8000万人のなかから「意中の人」を発掘し、お知り合いになれてしまう、ということである。
 雑誌の仕事で「こういうモノが好きな人間を至急見つけ、取材せよ」というような指令が下った場合、まさにこの8000万人データベースが非常に重宝する。「鉄道信号マニア」「路線バスマニア」「コカコーラグッズ収集家」「タランチュラ愛好家」「落書きマニア」――。これまでに取材させてもらったちょっとコアな人たちというのはたいていQQ経由で知り合っているし、むしろオフライン(現実世界)でのサークルや民間団体が少ない中国では、QQを通じてしか知り合う手段がないというのが現状だ。
 ところが、「探すのは易し、口説くのは難し」で、実際に取材に至るまでには相当の手間がかかっている。というのもQQのヘビーユーザーはほとんどが若者、特に10代後半〜20代前半の「90後(ジウリンホウ=1990年代生まれ)」世代が圧倒的多数である。今の中国の世代交代は4年一単位といわれるから、少なくとも3代の隔たりが私との間にある計算だ。しかし、中国の大原則は「頼み事があるなら、まずは友人になれ」。紹介者なしで取材となると、まずは本人と心を通わせ、信頼関係を築くことからはじめなければいけない。最後は警戒心の強い彼らにオフライン世界で会ってもらわなければいけないのだ。

創業120年の漢方薬局(安機省黄山市)

 この口説き作業、もしも電話やメールが通信ツールであったならこれほど苦労はしなかっただろう。ところが、これがオンラインチャットという顔が見えない文字のおしゃべりになると、かなりの忍耐力と適応力、そしてネット用語の理解力が必要不可欠となる。まず第一声のあいさつから冷や汗ものだ。もちろん「ニーハオ」なんかでははじまらない。
 「姐姐(ジエジエ=お姉ちゃん)」
 オバちゃんと呼ばれないだけ感謝しなければいけないのだが、オンライン世界での90後はとにかくフレンドリーだ。会話がはじまってからも、あいづちや感情表現など戸惑う表現や記号、数字が続出する。
 「倒_org」(ガクッ)
 「9494」(就是、就是=そうそう)
 「3166」(再見=さようなら)
 ちなみに「3166」はどうやら日本語の「Sa yo u na ra」の発音を文字ったネット用語らしい。
 さらに相手が「非主流(フェイジューリウ)」と呼ばれる若者の場合はもっと難解となる。非主流とは「盲目的に主流に追従せず、自己主張が強いファッションと考えを持つとされる若者」のこと。日本のギャル文字にも似た「火星語」を操り、たいていはハンドルネーム、プロフィール欄からすでに判読不能だ。ちなみに普段の中国語で「我一定感謝得五体投地(私はきっと心から感謝するだろう)」を火星語に言い換えると、「5e定3Q得orz」となる。日本のギャル語に置き換えるなら「ガチ感謝モノっすよw」といったところだろうか。
 QQで飛び交う隠語も奥深い。中央政府の公式発言で二言目には出てくる「和諧社会=調和のとれた社会」の「和諧(フーシエ)」。これがQQやネット掲示板では「負の情報を封印する」「言論の自由を奪う」という意味で使われている。同じ発音で「河蟹(フーシエ)」だったり、略して「HX」だったりするが、社会を揶揄する隠語がこうして若者の間で使われているというのはちょっとした驚きだった。
 現実世界とはまったく違う、インターネット限定の言葉。解読に多少苦労はするものの、そこで発せられる言葉からは、何千万という若いネットユーザーたちの本音が見える気がしている。私の口説き方がイマイチなのか、取材目的の「ナンパ」成功率は一向に上がらないけれど、中国という国を知る上でいまやQQは欠かせないものだと思っている。
 というわけで、明日も10代の気持ちで「+油(加油=がんばるぞ)」。

かんばやし・さなえ・・・1978年生まれ、奈良出身。京都外国語大学中国語学科卒業。上海在住9年目。中国人の夫と姑との3人暮らし。

【とろんのPAI通信】 第64回

産まれてはじめてのキッス♪

 わが町総社のヘソとなる神社総社宮で、今日11月15日(日)、七五三のお祝いがある。ボクらのお店「太一や」の斜め向かいが南門の鳥居だし、我が長男「太一」は3歳だから、みんなでお参りするつもりだ。産まれたての太一をお祝いするかたわら、昨日の14日は、79歳で逝ってしまった母の初七日だった。戒名の彫られた金箔の位牌が、タイミング良く初七日に出来上がってきた。そして明日、出来立ての位牌を持ってお寺に行き「開眼供養」とやらをしてもらう。我が家の仏壇には、今、ボクが3歳の時に自殺して29歳で逝ってしまった実母の位牌があって、明日夕方には、その横に、育ての母の新品の位牌が並ぶことになる。この二人、生前若きころ、倉敷の同じ紡績工場で働いていた友人同士なのだから、今ごろ、あの世で再会しているのだろうか??
 11月8日、いつもの通り「太一や」を夕方4時に閉めて、東京から帰ってきている弟と痴呆の父を乗せて、皆で母を見舞いに行った。いつもと違って呼吸を口と胸で苦しそうにしていたので、弟を独り病院に残してボクらは家に戻ったのだけど、家に着いた途端ボクの携帯が鳴り響いた。「オレがトイレに入って戻ってみると、息をしてなくって、心臓も止まっていた」という弟からの報告だった。それが6時45分だという。驚いた弟は、かすかに聞こえる母の左耳元で「オフクロ! オフクロ!!」と叫ぶ。それに反応したのか、シワクチャになった母の首の頸動脈が動きはじめたそうだ。そして数秒動いた後、再び止まり、完全に息絶えてしまった。
 帰らぬ人となってしまった母の痩せ細った顔に、実の子である弟は思わず知らず「産まれてはじめてのキス」をしたという。女好きのボクと違って、52歳の弟は一度も女体に自分の唇が触れたことはなく、「産まれてはじめてのキッス♪」を自分を産んでくれた母、帰らぬ人となった母で体験したのだ。

母性13育ての母(今年7月7日七夕に撮影。その2日後に精密検査のために入院、4カ月後に逝去。この写真を11月11日の葬式の遺影にした)

 店が終わった後、ほとんど毎日、父を連れてボクと愛妻はるかと太一の4人で母のお見舞いに行っていたのだけど、母と血が繋がっていないせいか、単にボクのクールな性格のせいか、ただの一度も母の体に触れてさすってあげたことがない。癌宣告をされてからの4カ月の間、みるみる痩せ細ってゆく母を見ても「この死に逝く様は、まるでジャイナ教徒のようだ。ヨーガ行者みたいだなあ」と妙に感心したり、夕方5時半を過ぎると2階の売店の弁当類全てが半額になるので、緩和病棟の5階から浮き浮きしながら2階に下りて4人分の弁当選びを楽しんだりして、母の看病への悲壮感は全くなかった。
 そして、母の意識がうつろになりはじめたころ、「オレはオフクロの死に逝く姿は見たくない!!」と言い張っていた弟を東京から呼び寄せ、母の意識があるうちに弟と対面させた。それが10月31日だから、その8日後に母は逝ってしまったわけだ。
 家族全員を目にして、自分の産んだ息子に看取られながら逝ってしまった母。手の施しようもない末期癌なのに、たいした痛みもなくて血も吐かず苦しまないで逝ってしまった母。手術も抗癌剤も受けず、この4カ月の間に徐々に食を絶ち水も飲めなくなって、まるでヨーガの断食修行者のように体の毒素を全て出し切って逝ってしまった母。
 1時間ほど亡骸の傍にいて、皆で体をふき、服を着替えさせて、母は4カ月ぶりに我が家に戻ってきたのだけど、この35年間、毎日夕方になると自動的に点灯していた庭の4カ所の灯が、何故だか全て消えていて真っ暗闇で、そのgoodな暗いタイミングにGODを感じてしまった夜だった。庭灯の修理もできなくって、10日のお通やの夜には、葬式業者が特別な灯を庭に燈してくれたのだけど、昨日の初七日の夜、消えていた庭灯が4つともパ!!っと生き返ったのだ。電気の気も人の気も同じ「気」で通じ合っているのだろうか? と不思議な想いを膨らませながら、明日、出来立ての位牌に「入魂」してもらいにお寺に行く。抹香臭い物を超えた宇宙的な「気」や「魂」が入ってこそ、言葉も音も人も作品も「感染力」をおびてくるのだろう。この時空を超えた摩訶不思議なる「宇宙力構造」。
 12月2日の満月がフライトなので、この原稿がこの世に出てくるころ、ボクらはバンコックかチェンマイ辺りで乾杯!!

   2カ月の「冬休み」直前の、浮き浮きとろんより。

著者近影

とろん・・・1969年高校卒業直後、フランス郵船に乗ってインドに上陸し地球放浪を始める。帰国後、専門学校、大学、夫などを中退しながらも、旅と文筆とライブ活動を続行し、今に至る。著書に『純粋単細胞的思考』『まるだしのエクスタシー』『とろんのダイジョーぶ経典(スートラ)』(共に、晩聲社刊)があり、この3年間は『とろんのPAI通信』を(なまえのない新聞)に連載中。2001年、50歳のときにタイのPAIに流れ着き、MOON VILLAGEという村つくりを展開しながら、(くるくるPAIバンド)を率いPAIでライブ活動中。

ホームページ:http://amanakuni.net/toron/

【若月元樹の『南の島から――沖縄県黒島の日々』】第45回

公民館が残した島の記録

 最近、黒島公民館が資料を整理したところ、1960年代以降の事業記録簿が出てきた。公民館は島の中枢組織で、島を挙げての行事は公民館が主催となるため、その事業記録というのは島の歴史といえる。その資料を目にした時、私は興奮した。名称どおり、黒島を研究する黒島研究所の者としては、この記録が発見された以上、しっかり保存しなければならない。公民館長の許可をもらって記載内容のテキスト化とコピーの作業を実施することになったため、その資料を預かっている。
 1960年以降を「歴史」と語るのは少し大袈裟に聞こえるかもしれない。しかし、1972年という年は沖縄県の施政権がアメリカから日本へ返還された「本土復帰」の年であり、多くの沖縄県民にとって戦後から現在の間での節目となる時期で、その前後の事業記録は非常に興味深い。
 1972年の事業記録簿に目を通すと、忙しい時は2〜3日おきに何らかの会合や行事が記録されているというのに、「本土復帰」の日である5月15日の記載がない。その前後にも「復帰」の文字さえ見当たらない。八重山にとって沖縄県の本土復帰は米軍基地問題同様にあまり関係ないことなのだろうか……。
 「本土復帰」には特に触れられていないものの、ところどころ変化は感じられる。たとえば公民館費など会費の徴収などでは「1弗」とか「50仙」と書かれていたものが「200円」とか「100円」に単位が変わっていた。「弗」は「ドル」、「仙」は「セント」と読むそうだ。また、復帰前年までは「1971年度」と書かれているものが、翌年には「昭和47年度」と西暦から年号に変わっていた。
 では、なぜ「本土復帰」は記載されていないのか。資料に目を通してゆくうちに私なりの結論が出た。ズバリ「それどころではなかった」のだ。

最近見つかった公民館資料

 「本土復帰」前年の1971年、黒島は7カ月間雨が降らないという大干ばつに見舞われている。現在のように西表島からの海底送水がなかった当時、黒島は雨水を貯めて飲料水として使用していたから深刻である。また、大干ばつ翌年も記録を見るかぎり水の心配ばかりしている。
 沖縄で広く語られる「本土復帰」の笑い話で、「沖縄が日本に復帰したら冬になると雪が降る、と信じる子どもが少なくなかった」というのがあるが、黒島では雪どころではなく雨が欲しかったことであろう。また、首席(県知事にあたる)や立法院議員(県議会議員にあたる)の干ばつ被害の視察も相次いでいることが記録されている。干ばつ当初は石垣島から水を一斗缶で60〜80缶ほどせっせと運んでいたのが、後にアメリカ軍の船で一気に20トンずつ運んだと記載されている。毎日使う水の確保に追われていたのであれば「本土復帰」どころではなかったであろう。ちなみに黒島研究所ができた当初は水道がなかったため、雨水を貯めるコンクリート製の大きなタンクが使われていて、現在も3つ残っている。ウェットスーツやマスク、シュノーケルなどの器材を洗うために大量の水が必要だったからだそうだ。
 前回、私は島に猫が多いことについて書いたが、猫についての記載も見られた。「ネコを大事に育て、島外へのネコの持ち出しを禁ずる事」とある。やはりこの島で猫は愛されてきたのか、はたまた農作物のネズミ被害が深刻なようであったから、ネズミ対策として大切にされてきたのか。黒島のおじー・おばーらに聞いてまわったところ、「おいしい」とのことだった。特に女性の場合は、結婚してなかなか妊娠しないと、次から次へと子どもを産む猫に「あやかれ」と食べさせられ、妊娠すると、「栄養をとれ」と食べさせられたそうだ。おいしかったので嫌ではなかったそうだ。もちろん、ネズミ対策もあったとは思われるが、今の50代女性までは「食べさせられた」ということであった。まぁ、愛されたことには違いないか……。

著者近影

わかつき・もとき・・・1974年広島県生まれ。沖縄国際大学大学院地域文化研究科修了。高校まで広島で過ごした後、沖縄の祖母の家へ移り住む。大学卒業後、そのまま沖縄でサラリーマンになったが、遊び足りなくて退職。大学院へ行ったはいいが、みんなまじめに研究していて衝撃を受ける。現在は八重山諸島の黒島にあるNPO法人日本ウミガメ協議会の附属研究所・黒島研究所でウミガメや島の人々らと戯れている。

黒島研究所ホームページ:http://www.kuroshima.org/

次号予告

 次号の配信は12月10日です。「もう〜3週間寝ると〜お正月♪」であり、「もう〜2週間寝ると〜クリスマス〜♪」です。
 さて、次号のメルマガラインナップは、岩崎稔の「大陸人の時間」、橋場了吾の「SAPPORO MUSIC LETTER」、編集長・和多田進の「濡れにぞ濡れし」です。お楽しみに!

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