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『メルマガ北海道人』第136号 2009.9.10.―「北海道人」、街の灯―

 街の灯から連想するものは何でしょう。「まちのひ」と読めば、チャップリンの映画『City Lights(街の灯)』でしょうか。ボズ・スキャッグスの曲『HARBOR LIGHTS』の邦題は『街の灯』でした。「まちのあかり」と読めば、いしだあゆみさんの『ブルー・ライト・ヨコハマ』の歌いだしや、堺正章さんの『街の灯り』を口ずさみたくなるかもしれませんね。と、ここまであれこれと書きましたが、今回のタイトルを「街の灯」としたわけは別なところにあります。つい最近まで、帰宅時の高速バスから見えていたのは夕焼けだったような気がするのですが、数日前に私が見たのは街の灯でした。時間帯は同じはずなのに……。ちなみに札幌の本日の日の入りは午後5時54分、7時になると真っ暗です!
 『メルマガ北海道人』第136号、街の灯が一番きれいに見えるところはどこですか配信!

もくじ

連載【上林早苗の『上海日記』】

 前回、チャンインの半生を書いた「上海日記」は最終回ですとお知らせしました。今回からは、上海で暮らす上林さんが日々の生活で感じているあれこれを綴ってゆきます。タイトルはやはり「上海日記」になりました。ということで、「上海日記」は新たなスタートを切ります! 今回は「死という言葉」について。中国の人びとは死についてどのように考えているのでしょうか? いや、考えていない???

連載【とろんのPAI通信】

 余命3カ月宣告を受け、入院生活をしているとろんさんのお母さんですが、妄想力に支配されていたかつての風貌とはまったくちがう、いまは穏やかな恵比須顔だそうです。今回はとろんさんがPAIからもどったころのゴミいっぱいでバリケードが作られていた実家のことなどについて。第58回のタイトルは「最後の砦」です。

連載【若月元樹の『南の島から――沖縄県黒島の日々』】

 黒島では9月1日から2日の夜にアンガマーが行われました。アンガマーとは本土でいう盆踊りのようなものだそうですが、アンガマーでチョンダラーが使う「カメ」を青年会長が黒島研究所に借りにきたそうです。「カメ」とは、亀? 今回も思わずクスッとしてしまう「沖縄県黒島の日々」です!

【上林早苗の『上海日記』】 第65回

死という言葉

 チャンイン物語が幕を閉じた今号からは9年の上海生活のなかで蓄積されてきた疑問や、「中国ってこうなのではないか」と思いつつあることを書き綴っていこうと思う。
 私が長年、気になっていることの一つに中国人の「死」への抵抗感がある。これまで死をテーマにした書籍などを読んだりしていると、きまって家族や友人に「そんなもの、どこがおもしろいんだ?」「縁起でもない」と眉をひそめられるので、もしや中国では「死」という単語が日本以上に忌み嫌われているのではと思いつづけてきた。
 あるとき大手保険会社の若い営業マンが我が家を訪れ、生命保険の各種プランを説明してくれたことがあった。
 「入院手当ては一日30元(約450円)です」
 「重大疾病を患った場合、一時金として5万元(約75万円)が支払われます」
 彼は懇切丁寧に解説してくれるのだが、どうも家族の反応がおかしい。サービス内容が詳細になるにしたがって、とくに義母が混乱したように私と夫の顔をかわるがわる見比べているのだ。話が「被保険者の死亡時に50万元(750万円)」のくだりになると、親切心からか「お母さんが死んだら息子さんに○万」「息子さんが死んだらお嫁さんに○万」などと例を挙げてわかりやすく説明するものだから、義母は完全に表情を失ってしまった。
 義母は筋金入りの健康マニアである。毎朝5時から体力づくりのトレーニングに出かけ、一日40品目ほどを食卓に出し、私の弁当箱にも毎日、五穀米をぎゅうぎゅうに詰めてくれる。人間って本当に努力次第で時間に逆行して若返るのでは……と信じたくなるような徹底ぶりで、少なくとも本人はどこかでそう信じようとしているフシがあった。おそらく病気を想定した人生設計などは立てたことがないし、死ぬことをなるだけ考えないように生きてきた人なのである。

船着場で渡し船を待つ中年男性(上海・横沙島)

 それが仮定とはいえ、自分や家族がガンや心臓病、交通事故に見舞われることを前提にしたプランを出され、しかもそれに対して祝い金のごとく多額の現金が支払われるというのだから、義母からすればまるで呪いの言葉を浴びせられたような気分だったにちがいない。結局、契約に至らなかったのだが、それ以降、義母にとっての生命保険のイメージは邪悪なものとなった。
 その後、保険の営業マンをしている知り合いの中国人に聞くと、中国の一般家庭を回っているとそうした反応は日常茶飯事なのだという。中国はかつて、ゆりかごから墓場まで国が補償してくれたので、民間の保険商品など存在しなかった。そのため、義母のように保険のシステムそのものを知らない人は意外に多く、「家族の死を想定するなんて」と憤る人が少なくないのだという。
 前に「理想の死に方」について上海に住む20〜40代の中国人・日本人約70人を対象に自由回答式のアンケートを行ったことがある。結果、日本人の大部分は「老衰」「自然死」と答えたのだが、仰天させられたのは中国人の過半数を占めた「安楽死」という回答。なかには「考えたくない」と答えた人、回答拒否の人もおり、中国人の死と死にともなう苦痛への恐れはやはり特別なのだとあらためて感じる結果になった。
 そこで理由をあれこれと考え、とりあえず思い至ったのは宗教問題である。中国は古来、儒教と仏教の国だが、新中国成立以降、政府は一貫して宗教活動を制限してきた。特に文革期には死者を弔うさまざまな儀式が禁止され、墓でさえ封建社会の残滓であるとして紅衛兵たちにことごとく破壊されたらしい。上海市内にほとんど墓地が見られず、「先祖の墓がない」という友人が多いのはそうした理由からだ。墓がないということは墓参りもできない。仏壇もほとんどない。つまり死を考える機会が少ないなか、ほとんどの人が死に対して漠然とした恐怖を覚えているのではないか、と想像している。
 ちなみに小心者でおっくう者の私にとって死は怖いものであるが、死を考えないことはもっとつらい。締め切りがないと原稿が書けないように、ゴールを感じていなければ新しい一歩を永遠に踏み出せないからだ。そういう意味では、「死」を避けながらもこれだけパワフルに生きられる中国の人たちが私にはうらやましくてしかたがない。

かんばやし・さなえ・・・1978年生まれ、奈良出身。京都外国語大学中国語学科卒業。上海在住9年目。中国人の夫と姑との3人暮らし。

【とろんのPAI通信】 第58回

最後の砦

 母は重度の糖尿病で、1日4回インシュリンを打ちながら10年以上も通院していて、痴呆の父と一緒に心療科にも通っていた。すべてを悪い方にしか受け止められなくって、関係妄想が強く、いつもだれかに見られ監視されている、家にだれかが密かに出入りしている、などと本気で想っていて、深夜、「女がいる!!」といっては父に向って大声で怒鳴ったり罵ったりしていたものだ。人の話をまったく聞かないで、自分のそういう強い想い込みを一方的に言い放ち、周囲の人たちを自分の妄想力で巻き込んできた。
 そんな母が「余命3カ月」の宣告を受けて入院してしまったのだけど、以前はよく「死にたい! 死にたい!!」と言っていたのに、今の母は、生きたい!!! という意欲がものすごくって、5階病棟から2階にある売店まで歩いて行って、食べたい物を買い食いしながら足腰を鍛えているのだ。3度の食事もスプーン2〜3杯しか食べられなくって、点滴も打ってないのに、脈拍は力強く、顔色も表情もよくって、放つ声に衰えがない。食べられない断食状態で体重が激減し、無駄な脂肪が削ぎ落とされ身が軽くスッキリし、愛妻はるかの打算のない愛や太一の天真爛漫な風景に癒されて、心の病もウソみたいに消え去り、その結果、本来のイノチが全開しはじめ、生きよう!!! とする自然回復力が高まり、身も心も光に向かってゆく。妄想に支配されていたころの母の風貌は醜く正視できぬものがあったけど、今の母は、まさに母性穏やかなる恵比須顔なのだ。
 この「余命3カ月」のなかで、ますます断食状態で身が研ぎ澄まされキレイになり、周りからの優しさで心も洗われていくことを想うと、母のこういう運命も悪くはないな、と強く思う。あのダブダブに太った糖尿病の醜い肉体のまま、人を拒み邪気を放ちながら死んでゆくもう一つの流れを想う時、母のイノチは、自ら身も心も安らかになって死んで逝くために癌になったのかもしれない。

2歳半の麻陽くんの母。パートナーのひでさんとともにNEW MOON VILLAGEの住人で、その様子を『SPECTATOR』第20号に執筆&写真掲載

 母が妄想力に支配されていたころの家はものすごかった。ボクらが両親の介護のために岡山の家に戻ってきたのが、おととしの12月。家の内部も庭も不用品の山で、そのゴミのようなもので外部からの砦を構築していた。庭の木はジャングルのように繁り、その隙間に物を詰めては外から見えないようにし、家の内部の窓や戸は、まるで学園紛争風景みたいに不要な棚やテレビなどで封鎖され、ふたつある長い廊下も不用品のバリケードで通れなくしてあった。そして、窓という窓には「ここを開けないでください!!」と懇願する声が聞こえてくるほどの張り紙がしてあり、ほかのアチコチにも怖々しい字で描かれた拒絶的な張り紙がしてあるのだ。外部からの空気と風景を一切入れないで、家の内部は母の重苦しい邪気と異様な静けさが充満していて、すべてが澱んでいた。おそらく父は、この常軌を逸脱した重圧から逃れるために自ら痴呆化したのだと思う。母からの異様な罵声と邪気から自らを救うためのイノチの痴呆化現象。
 介護をはじめたボクは、まず、ジャングル化した庭の木の伐採からはじめ、母の妄想力邪気力を中心から切り裂く勢いで家の内部も大手術し、業者に頼んでトラック3台分の「燃えないゴミ」「粗大ゴミ」を処分し、週2回の「燃えるゴミ」の日には毎回7つも8つものゴミ袋を出しつづけた。母が長年たてこもってきた台所も、ボクが壁を明るく塗り替え、床も明るい色に張り替え、いらないものはすべて処分したので、窓から空気や光がいっぱい入ってくるようになって、家族全員が明るい空気に包まれながらダイニングキッチンで食事ができるようになった。それまでは、隣の応接間まで食事を運んで、隠れるようにして食事をしていたのだ。
 そして一年半たって、暑い夏がやってくる前、この間、母の「最後の砦」であった庭に面した縁側部分の長い廊下のバリケードを撤去した。この一年半の撤去作業は、母の妄想力の様子を見ながら、母の気持ちを害さないスピードとタイミングで展開してきたので、この「最後の砦」を片付けキレイにした時は「ほんとはこうしたかったんじゃ」と母も心から喜んでいた。そして、この「最後の砦」が消え去った直後、母は入院し、「余命3カ月」の宣告を受けたのだ。
 死ぬも生きるも同じイノチの渦巻き線上のハプニングだけど、こんな明日が読めぬハプニングつづきの中、ボクらは11月17日の新月にPAIに向かうフライトを決めた。カケ、みたいなものだ。そしてその前に、9月26日(土)半月から二日間、「太一や」の在る総社市旧商店街で、NPOがはじめた『れとろーど』という祭りがある。この寂れ切った通りに2日間で2万人の人がやってくる5年目の祭りに、われらの「太一や」が初参加する。すべてはどうなることやら、オ、タ、ノ、シ、ミ。

       ハプニングのだいすきな、とろんより。

著者近影

とろん・・・1969年高校卒業直後、フランス郵船に乗ってインドに上陸し地球放浪を始める。帰国後、専門学校、大学、夫などを中退しながらも、旅と文筆とライブ活動を続行し、今に至る。著書に『純粋単細胞的思考』『まるだしのエクスタシー』『とろんのダイジョーぶ経典(スートラ)』(共に、晩聲社刊)があり、この3年間は『とろんのPAI通信』を(なまえのない新聞)に連載中。2001年、50歳のときにタイのPAIに流れ着き、MOON VILLAGEという村つくりを展開しながら、(くるくるPAIバンド)を率いPAIでライブ活動中。

ホームページ:http://amanakuni.net/toron/

【若月元樹の『南の島から――沖縄県黒島の日々』】第39回

貸し出した「カメ」

 今年の旧盆は新暦の9月1日から3日であった。3日は「ウークイ」と言い、あの世から戻ってきている先祖を見送るという大切な日で、沖縄では学校も休みとなった。
 黒島では1日から2日の夜にアンガマーが実施された。アンガマーそのものについては第12回の連載で詳しく触れているので割愛する。
 今年も8月中旬ころから青年会のメンバーが夜な夜なアンガマーの練習をし、本番に備えていた。アンガマーの数日前に青年会長が黒島研究所を訪れ、「カメを貸して欲しい」と要望してきた。
 「カメ」とは「亀」ではなく、「甕」のことで、黒島研究所の資料展示室に民具として展示してある。沖縄における「カメ」は大切な生活道具で、味噌・醤油・油などなんでも「カメ」に貯蔵した。そしてなにより重要なのが水を貯める「カメ」で、水の確保に苦しんだ黒島では特に重要であったと考えられる。ちなみに亡くなった明治生まれの私の祖母の名前は「津嘉山カメ」であった。沖縄の女性は台所用品が名前として付けられていたようで、「カマド」、「ナベ」、「タマ」などといった名前が80代以上の女性によく見られる。
 青年会長が借りに来たのは、アンガマーで使う、顔面白塗りの京太郎(チョンダラー)役が2人で担いで各家でもらった寸志を入れるための「カメ」で、かつてはお酒をもらってまわっていたらしいが、現在は現金となっている。その「カメ」を、去年のアンガマーで割ってしまったらしく、青年会長が今年用に探してまわっていたのだった。
 黒島研究所で展示してあるほとんどの民具は島の人たちが寄付してくれたものでもあるので、島の行事で展示品が使われることに断る理由はない。快く青年会長に展示品の「カメ」を貸すこととなった。

チョンダラーにかつがれ、その役割を果たすアンガマー初日の「カメ」の様子

 アンガマー当日、島のおじーによって形に合わせてロープが編まれ、棒にくくられた「カメ」は、その役割をしっかり果たしていた。
 2日目、あと数件で今年のアンガマーが終わるという時、「カメ」が段差を転がり、「グシャ」と嫌な音が聞こえた。
 アンガマーが終了後、「カメ」の安否を気遣いたかったが、各家々でお酒を飲まされ、私は酔っていた。いや、私だけではなく全員酔っ払っていた。打ち上げで私の隣に座っていた青年会長に「カメ割れましたよね」と聞いても、「いや、嫌な音はしたけど割れてはいない」と認めようとしなかった。
 私は怒っているわけではなかった。数年前、島の人のお祝いの余興に使うので、黒島研究所で展示してある船の舵を貸して欲しいとお願いされた。そのころの私はまだ真面目で、島の人たちから預かった貴重な展示品をしっかり保存してゆくのが我々の務めであると考えていた。特にその舟の舵は素材にサキシマスオウノキという根が板状になる木の板根(ばんこん)という部分が使用された貴重なものであったため、強く反対したが、相手のねばりに負けて貸してしまった。
 後日、その舵は割れて戻ってきた。しかも借りた人は少しも悪びれていない。当初は腹が立つというよりも、貸し出す判断をしてしまった自分が許せなくて数日間、落ち込んだ。自分たちが島の貴重な民具を収集したり、保存したりする資格があるのかと悩んだ。しかし、島の行事で破損したのならばそれも自然の流れだと考えることにし、いまでは割りきれるようになった。だから今回、アンガマーで「カメ」が転がり落ち、「グシャ」と嫌な音が聞こえても、「カメ」は割れるものだと割り切れていた自分がいた。むしろ島の行事に貢献して割れた「カメ」ならば、それをそのまま展示してやろうではないかと開きなおっていた。
 アンガマーから一週間、割れた(かもしれない)「カメ」は青年会からまだ戻ってこない。

著者近影

わかつき・もとき・・・1974年広島県生まれ。沖縄国際大学大学院地域文化研究科修了。高校まで広島で過ごした後、沖縄の祖母の家へ移り住む。大学卒業後、そのまま沖縄でサラリーマンになったが、遊び足りなくて退職。大学院へ行ったはいいが、みんなまじめに研究していて衝撃を受ける。現在は八重山諸島の黒島にあるNPO法人日本ウミガメ協議会の附属研究所・黒島研究所でウミガメや島の人々らと戯れている。

黒島研究所ホームページ:http://www.kuroshima.org/

次号予告

 次号は9月17日(木)に配信します。そろそそ道内各地で収穫祭がはじまるころです。北海道の特産品「鮭」関係のイベントもあります。さけまつり、あきあじ祭り、サケフェスタ……。みなさんネーミングに苦労しているようです。
 さて、次号のメルマガラインナップは、岩崎稔の「大陸人の時間」、橋場了吾の「SAPPORO MUSIC LETTER」、編集長・和多田進の「濡れにぞ濡れし」です。お楽しみに!

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