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『メルマガ北海道人』第46号 2007.11.22. ―「北海道人」、初冬のサーファー―
 北西の風が吹きすさぶ日本海。この荒々しい海の波間にいくつかの黒い影が見え隠れしています。ウミウのように波にプカプカ浮かぶその影の正体は、サーファーでした。確かにサーフィンには良い波です。しかし、寒いじゃないですか。厚手のコートにマフラー、帽子、手袋で重装備した人たちで賑わう街から少しはなれたところに、海水につかっている人がいるとは。
 これはスポーツではなく新しいカタチの寒修行……。そう思うと納得できます。思わず手袋をはめた手を合わせて拝んでしまいます。あー、仏説摩訶般若波羅蜜多心経。
 『メルマガ北海道人』第46号、寒修行的配信! サーファー、スゴイ!

となりの北海道人『私のお父さん』




■もくじ

連載【上林早苗の『上海日記』】

 今回の上海日記はいまから35年前、日中国交正常化の年の話です。その時の日本の首相、田中角栄は中国でも超有名人でした。当時、小学2年生だったチャンインにはある悩みがありましたが、田中角栄がその悩みを解決してしまいます。雨の日には気をつけろ! チ、チ、チ、チャンイン。

連載【とろんのPAI通信】

 前回に続き、今回は愛妻はるかさんとの出会いからプロポーズまで話の後編です。とろんさんの新居の隣で暮らすことになったはるかさん。彼女が側にいる日々の中で、とろんさんの想いが極限状態に達してしまいます。赤面するほどのストレートな告白。ここに恋愛の奥儀アリ! 学ぶところ多し!

連載【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】

 「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」。「原爆慰霊碑文」の主語をめぐって起こった問題の本質が、鈴木氏の前便にそのまま横たわっていると和多田進は指摘します。「誠臣塾」なら鈴木さんを抗議の対象にするだろうと。二人の間に漂う暗雲。これもまた然りですか、雨降って地固まるですか。

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□連載
【上林早苗の「上海日記」】第二十回

ヒーロー田中角栄

 今年は日中国交正常化35周年にあたり、「日中文化・スポーツ交流年」に指定されている。ここ上海でも日本関係の催しがめじろ押しで、出不精の私も浮世絵展や日本写真芸術作品展、演劇『孫文と梅屋庄吉』などに足を向けた。なかでも近代中国の父といわれる孫文と映画制作会社・日活の創始者・梅屋の友情を描いたこの芝居は、役者もセリフも観客も日中混合。言葉や文化、歴史観の異なる中国人と日本人が一つの舞台を見るということのおもしろさを知った。笑うタイミングの一致や不一致、互いの反応に対する観察など、観客席に生まれる戸惑いや発見もまた異文化交流の一つなのだろうなと思う。
 今回はその日中国交正常化の年、つまり1972年の話である。この一年は中国にとって非常に重要な年だった。まず2月にアメリカのニクソン大統領が訪中し、事実上、米中の国交が回復した。当時、小学2年生だったチャンインは「帝国主義国家」アメリカの首領を迎える心構えをこう教えられたという。
 「我們要不卑不亢(私たちは傲慢にも、卑屈にもなってはいけません)」
 そして9月には日本の田中角栄首相が訪中。日中共同声明が合意に至り、日本と中国の首脳同士がようやく手を取り合った。このことは中国の新聞でも大きく取り上げられ、田中角栄は一躍有名人となった。チャンインは首相の写真を一目見て思ったそうだ。
 「あれ? 日本人なのにヒゲがない」
 抗日戦争映画で見る日本人はみな鼻の下にヒゲを生やしている。田中首相にはそれがなかった。そしてもう一つ、チャンインにとってさらに衝撃的な事実があった。田中首相がかつて吃音症でそれを克服した、ということだ。その頃、チャンインもまた、自分のどもりに悩んでいたのである。
 そもそも小学校入学時、チャンインにどもりの兆候はなかった。むしろ児童代表としてしょっちゅう壇上スピーチをしていたほどだ。ただ、クラスにはどもる子がいた。その子たちは先生に指名されて答えようとしても最初の単語がどうしてもうまく発せない。「老師(ラオシー=先生)」と言おうすると、「ラ、ラ、ラ」と一つ目の音をただ繰り返してしまう。チャンインはその姿が滑稽でしかたなく、いつしかそれを真似て遊ぶようになった。

写真
「日本撮影芸術作品展」を見学する上海人老夫婦(上海美術館)

 ある雨の日のことである。チャンインはいつものように「どもり遊び」をしていた。直立不動で目を細め、首を曲げて「イ、イ、イ」とわざと苦しそうにしゃべるのだ。ところが、この日、彼は母の言いつけをすっかり忘れていた。
 「雨の降っている時だけは(どもり遊びを)やるんじゃないよ」
 雨の日に真似たものは体がすぐに覚えてしまう――母をはじめとして多くの大人たちがそう信じていた。昔からの言い伝えである。そして事実、チャンインはこの日を境にしてどもりが本当に治らなくなってしまったのである。
 とにかくこれは一大事であった。チャンインは副クラス長だ。授業開始前に「起立(チーリー)!」の号令をかけるのは彼の役目である。ところが、今はそのたった二文字がうまく言えない。焦るほどに言葉が詰まり、周りの男子が「チ、チ、チ」とはやし立てる。結局、なかなか授業がはじめられないことに業を煮やした担任がチャンインをその役から解いてしまった。
 そんなチャンインだったから、田中角栄のどもり歴に驚喜したのも無理はなかった。田中角栄は首相だ。先生が「彼の不撓不屈の精神を見習いましょう」などと言うぐらいだからよっぽどすごい人なのだろう。その人がなんと、どもりだったらしい。しかも新聞には「田中のような大人物にどもり多し」と書かれている。つまり、どもりは偉くなるんだ。どもりの自分は大物の器なんだ。自分は人と違うんだ――。こうして歴史に残る日中国交回復は、チャンイン少年のプライドを見事に復活させたのだった。
 現在、チャンインはアナウンサー並みの完ぺきな中国標準語を操り、話術にも人一倍長けているが、会話中の吃音は健在だ。私はこの話を聞いて以来、彼の言葉がつかえるたびに、あの雨の日のひそやかな遊びと日中の歴史的瞬間を思い出し、どこか切ない気持ちになるのである。

かんばやし・さなえ…1978年生まれ、奈良出身。京都外国語大学中国語学科卒業。上海在住7年目。中国人の夫と姑との3人暮らし。

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□新連載
【とろんのPAI通信】 第13回

水ようマーケットに行きたいな 後編

写真
 7月7日七夕の日のボクらの結婚式直後の親子
 3人
  11月は雨季も終わって忙しい。24日の満月には稲刈りがあるし、10日の新月には「PAI MUSIC CELEBRATION」という大ステージがある。タイの有名人気バンドがあちこちから集まってきて、ボクらの「くるくるPAIバンド」も「カラワンバンド」(日本でもよく演奏してきていて、その記録も本になっている人気バンド)の直前に演奏するのだ。だから、今、とっても気合が入っていて、この2日の半月からムーンビレッジの六角堂で練習を始めている。
 音楽といえば、ボクの大好きなジョン・レノンが生まれたのが10月9日で、ニューヨークで撃たれたのが12月7日。そして、毎年この12月7日にボクらの「くるくるPAIバンド」は、キャンバスカフェというギャラリーバーで亡きジョン・レノンに向けてコンサートをしてきた。彼と同じ誕生日の愛妻はるかがムーンビレッジの長屋に住み始めたのは、丁度その追悼コンサートに向けての練習が始まったころだ。ボクは練習の時、メンバー以外の人がいると全くやる気がなくなるタイプなので、毎回厳しくメンバーだけにしていたのに、その時だけは練習中に彼女がはいってきても全く気にならないどころか、自分の声や笛の音色にイノチがふくらんでくるのを感じて驚いてしまった。
 夜は我が家のスグ隣の長屋にはるか楊貴妃が眠り、昼間の練習の時にはその美しい存在がボクにイノチを注いでくれ、一日一日と本番12月7日に向けてゆく中、ボクの彼女への想いが極限にまで達してしまった。ボクは本番直前には必ずお寺にお参りしていて、この時はコンサート会場に近い山の中腹にある名刹(ワット メーイエン)に登った。寝釈迦の前で尺八の音を出してお祈りするため、そして、ボクの極限までに達した彼女への想いを言葉に託すため。演奏前に一緒に山のお寺にお参りしてほしいとお願いし、その山に向かう長い石段を15分程かけて2人で登っていく。このままじゃ本番に向かえない! この極限までに達したはちきれんばかりのボクの彼女への想い、気持ち。これをボクの内に秘めたままじゃ、吹けない! 歌えない!! 笑えない!!!
写真
毎週水曜日、何でも安い(水ようマ ー
ケット)が開かれる。ボクにあて た
買い物リスト、メッセージ&イラ スト
BY はるか
 お寺に向かう長い石段。その一歩一歩が、この極限の想いを支えるボクの(理なる性)をイノチの(野なる性)に変貌させてゆく。お寺にお参りして、PAIの町全体を展望できる絶好地点に二人が立った時、まだこの世に産まれぬ(太一)が遠く宇宙の果てからボクにむけてイノチの(ことば)を送りよこす。「ボクの人生の最後のパートナーになってほしい! もし、今付き合っている人がいるならあわせてほしい!! その人がボクよりもスゴイ!!! 男ならスグ諦めるけど、そうでないならゼヒともボクと一緒にいきてほしい!!!」
 本番が始まった。お寺でボクの気持ち、想いの全てを彼女に向けて言葉化できたボクはステージでは“あほ”みたいに即興で歌え、笛も“こんなに吹けてダイジョ〜ぶか”と心配するほど自由に演奏できた。そして、もっと驚いたのは、ボクの目の前に沢山のお客さんがいるのに全くボクの視界に入ってこないことだ。ボクの視線は、告白してしまった相手(はるか)だけに絞られていて、彼女も沢山のお客の一番後ろに立ってボクだけに視線を送ってきていたのだ!! まるで映画のシーンのように、向こう(はるか)だけにクッキリとピントが合っていて、他は全てぼけていた。そしてライブが終わったとたん、ピントの合った映像(はるか)がピンボケした沢山のお客の中をスローモーションで走り抜けながらボクに向かってやってくる!!!
 「わたしも、PAIで一緒に暮らす!!」
遠く宇宙からまだ産まれぬ(太一)が自分のママになる存在に(うちゅう力)を吹き送り(ことば)が生まれ放たれた。
    56歳でパパになったとろんより。

PS 11月10日新月のコンサートは一万人の観衆の前で、愛妻はるかも太一も一 緒にステージに立って、いままででさいこう!!! を感じたな。アリガト、 うちゅう力様。

とろん…1969年高校卒業直後、フランス郵船に乗ってインドに上陸し地球放浪を始める。帰国後、専門学校、大学、夫などを中退しながらも、旅と文筆とライブ活動を続行し、今に至る。著書に『純粋単細胞的思考』『まるだしのエクスタシー』『とろんのダイジョーぶ経典(スートラ)』(共に、晩聲社刊)があり、この3年間は『とろんのPAI通信』を(なまえのない新聞)に連載中。2001年、50歳のときにタイのPAIに流れ着き、MOON VILLAGEという村つくりを展開しながら、(くるくるPAIバンド)を率いPAIでライブ活動中。

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□連載
【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】 第25回

和多田進→鈴木邦男

まっすぐに、正面からお訊ねします

鈴木邦男さま

前略
前便を拝読し、読み返しているうちに、広島の「原爆慰霊碑」のことを思い出しました。鈴木さんもご存知の通り、あの碑には「安らかに眠っ て下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれているんですね。この碑文をめぐって、いくつか問題が起こりました。衝撃的だったのは、「誠臣塾」所属の男がこの碑文の一部をハンマー等で削り取る事件を起こしたことでした。この事件が起こされる前にも、児玉誉士夫が顧問をする団体が碑文を抹消せよと抗議したり、それに反対する市民運動が起こったりして社会問題化したのでしたね。
 では、どうして右翼がこの碑文を攻撃の対象にしたのか。その源をたどれば、この碑文には「主語」がないということにいきつきます。この文は、いったいだれが「過ちを繰返しませぬ」と誓っているのかが不明です。主語がない。それが日本語の大きな特徴だとしても、この文は度が過ぎていて、「過ち」を「繰返」さぬと決意している主体はだれなのかが不明なんです。つまり、まったく論理的じゃない、情緒的な、なんとなく雰囲気だけで成立している文だといってもいいでしょう。
 この文をごくあたり前に理解しようとすれば、主語は「私たち」ということにでもなるのでしょう。「私たち」ということは、論理のうえでは「日本人」ということになってしまいます。ところが、そういうことになると、論理としても事実としても、いっそう辻褄が合わない事態になります。
 原爆を広島に投下し、市民を大量殺りくしたのはアメリカです。反対に、原爆を投下されて人類史上はじめての大変な被害を受けたのは日本です。主語が明示されないこの文は、被害者が反省するという奇妙な意味になっちまったのでした。「右翼」は、そこを問題にしたんでしょう。
 そうした「右翼」の理屈に、私は賛成します。だれに対して何を謝るのか? 何を反省し、だれに向って何を決意するのか? そこが不明の決意やお詫びにはまったく意味がないのですから。
 もののふの精神をもつ人びとにとってゆるがせにできない基本の精神が「原爆慰霊碑文」をめぐる騒動の底にはあったはずだと私は思うのです。もちろん私は、もののふの精神なんかもち合わせられるような人間ではありません。そのことを自覚しているまったく軟弱きわまりない人間でありますけれども、いつの日か「エセ言論人」から脱却したいと願っているひとりではありたい、とは思っています。その(程度の人間に過ぎない)私から見て、鈴木さんの前便は謎だと言わざるを得ないことを告白しなければなりません。

写真
道25・長崎県平戸島船越(写真・WATADA)

 鈴木さんは前便で、「不用意にこんな言葉を使ってしまい恥じ入るばかり」「反省しています」とも、「タイトルだけで勝手に判断し、結論づけた僕が愚かだったのです。申し訳ありませんでした」ともお書きになり、最大級の「謝罪」と見える言葉を遣われておられます。しかし、そこには「主語」がないのではありませんか? 私が提起した問題の所在と、鈴木さんの「謝罪」の間には大きな齟齬があるように私は感じました。さらに言えば、鈴木さんの前便には、「原爆慰霊碑文」をめぐって起こった諸問題と本質的に同様のことがそのまま横たわっているように思えてなりません。想像をたくましくすれば、「誠臣塾」なら鈴木さんを抗議の対象にするだろうとさえ私は考えますが、どうでしょう。
 鈴木さんは「弱い」「強い」に対するご自分の考えを「反省」されるのではなく、私が私の前便に書いた主題についてご意見を述べられるべきではないでしょうか。つまり、鈴木さんからの書簡に私が「ビックリ」したことについてこそ鈴木さんは語るべきだったのではないか、と思うのです。
 それは「反省」とか「謝罪」といった次元のことなどでは必ずしもありません。鈴木さんはご自分が書かれた前便で、和多田の「人間宣言」とか、和多田は「何でも知っている」とか「達観している」とかという評価を私にいたしました。そして私は、それら一連の評価に「ビックリ」したと書いたのです。
 私は私の前便で、鈴木さんの前便に「多少でも冗談や(私に対する)オチョクリの類、感情が」「ふくまれているのだとしたら、それは鈴木さんという人間の大切ななにかをオトシメルことにつながるのではないかと」思うとも書きました。失礼を省みず、私は思い切ってそう書きました。私としては、ここのところにこそ主要な論点があると思っています。「弱い」「強い」をめぐることがらは、その主要な論点の「解説」「説明」「展開」に過ぎないのですから。
 私が二〇歳のころに読んだ遠藤周作の『沈黙』の中のいくつかの文言は、それから四十余年を経たいまもなお私の精神の奥で切なく、しばしばのたうちまわり、蠢くのをやめてはくれません。作中、転びに転ぶ日本人切支丹のキチジローの、たとえばこのような言葉はそのひとつであります。
 「(マリアの踏絵に唾をかけることもマリアを淫売とののしることもできずに水礫に処された)モキチは強か。俺(おい)らが植える強か苗のごと強か。だが、弱か苗はどげん肥(こや)しばやっても育ちも悪う実も結ばん。俺のごと生まれつき根性の弱か者は、パードレ、この苗のごたるとです」
 早く葦津珍彦の話にもどしたいと思っていますけれど、話題が拡散しつづけていく楽しみもないわけではありません。まあ、急がず、ゆっくり、ということですね。お身体ご自愛のほど。

不一

2007年(核時代62年)11月11日
和多田進拝

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連載【となりの北海道人「私のお父さん」 第30回】
 北海道出身、または現在北海道にお住まいの4人の方に、ご自分のお父さんについて語っていただくコーナーです。それぞれのお父さんの物語、お父さんの秘密が今回もまた明かされます。「私のお父さん」は下記アドレスにアクセスしてお読みください。

http://www.hokkaido-jin.jp/issue/dad/101.php?no=030




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 温かい日が続いていたので、ここ最近の急激な温度低下に身体がついていかないという方も多いのでは。次号が配信される頃、札幌は根雪になっているのでしょうか。
 さて、次号のメルマガラインナップは、田野城寿男の「楽譜のいらない音楽授業」と岩崎稔の「大陸人の時間」です。
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