メルマガ北海道人

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『メルマガ北海道人』第44号 2007.11.08. ―「北海道人」、黄金の道―
 黄金が道路にしきつめられていました。空からも黄金が降ってきました。黄金にカメラを向けている男性もいました。黄金のまばゆさに、テンションも上がり呼吸もはやくなり体温も上昇しました。その黄金の正体はイチョウでした。興奮は色のせいでしょうか、脳みそがイチョウを何かと勘違いしたのでしょうか。それとも……、そこが21世紀のエル・ドラード、黄金郷だからでしょうか!
 『メルマガ北海道人』第44号、黄金の道の上から配信!

となりの北海道人『私のお父さん』




■もくじ

連載【上林早苗の『上海日記』】

 今回はチャンインが小学校時代の話。紅小兵に選ばれ順風満帆な学校生活を送っていたチャンインに事件が起こります。ある日の授業中、教室の戸に何かがぶつかる音がしました。先生が戸を開けてみると、そこに立っていたのは杖をもった一人の老人でした。その老人がチャンインを……。ああ、チャンイン!

連載【とろんのPAI通信】

 今回はとろんさんと愛妻はるかさんの出会いからプロポーズまでのドラマティックな話の前編です。(何かに突き動かされるように)突如として行動を起こし、めぐり合ってゆく二人。はるかさんはなぜタイに? とろんさんはなぜそこに? インドのベナレスで出会った預言者の言葉が現実に!? 後編も早く読みたいPAI通信。

連載【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】

 前回、和多田進は「お互いの理解に大きな齟齬が生じている可能性があるように思う」と書きました。「強い」「弱い」は曖昧な概念であると。今回、鈴木邦男氏は言葉の使い方について、右翼の先輩・野村秋介氏のエピソードを交えて語ります。「死守とは死んでも守るということ。守れないなら死ね!」とは野村氏の言葉。

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□連載
【上林早苗の「上海日記」】第十九回

じいちゃんのレジスタンス

 私は会話中にとんでもない聞きちがいというのをよくしでかす。これまでは同音異義語の多い日本語の言語構造のせいだろうと思ってきたのだが、つい先日、こんなことがあった。友人男性と中国語で世間話をしていた時のことだ。彼はある旧友を思い浮かべ、こう言って嘆いた。
 「今じゃあの男、すっかり信誉(シンユィ=信用と評判)をなくしちまってなあ」
 ごく普通の発言である。耳を疑うような内容ではない。ところが、私はこの「信誉」を発音のよく似た「性欲(シンユィ)」と早とちり。軽いショックと各種妄想からたちまち無言となり、それまで快調にしゃべっていた友人を訝しがらせてしまった。おそるべし中国の同音異義語、いや、おそるべしわが耳である。
 結局、話がしばらく進んだところで真意が判明。実にしづらい説明を経てようやく一件落着となった。これからは円滑なコミュニケーションと自らの「信誉」のため、話の脈絡というものに十分気をつけたいと思う。
 それはさておいて、話は1971年、チャンインの小学校時代にさかのぼる。クラスで唯一、紅小兵に選ばれたチャンイン少年は順風満帆な日々を送っていた。そんなある日、チャンインにちょっとした事件が起きる。発端は祖父シャオフォンさんのこんな一言だった。
 「今日は昼から映画に行くぞ」
 ちょうど午前中の授業を終え、昼食のためにいったん帰宅していたチャンインは一瞬胸を躍らせた。映画といえば当時、最高の娯楽だ。なんとしてでも行きたい。しかし、授業をすっぽかすわけにはいかなかった。チャンインは祖父の申し出を断り、後ろ髪をひかれる思いで自宅を出た。
 ところが、事はそれで終わらなかった。午後一番の国語の授業がはじまってまもなくのことだ。教室の戸にガンガンガンと何かがぶつかる音がした。先生が戸を開けると、そこには杖を手にした老人が立っている。シャオフォンさんだった。

写真
移動中の武警(武装警察)の若者たち(淮海路)

 「チャンインはいるか。わしの孫だ。おーい、チャンイン!」
 担任教諭でもある陳先生はあわてて言った。
 「あなた、授業中ですよ!」
 シャオフォンさんはそれにかまわず、最前列に孫の顔を見つけてこう言った。
 「映画に行くぞ」
 陳先生は声を荒げる。
 「授業中です!」
 「授業なら家で私が代わりにしときますので。コラ、早く来んかい!」
 そうしてチャンインは祖父に手を引かれるまま教室を後にした。興奮と一抹の不安を覚えながら。
 翌日、チャンインは案の定、陳先生に呼び出された。
 「あなたのおじいさんはどういうつもりなの。学校の規則をいったい何だと思っているの!」
 先生に怒られたことがなく、プライドも高かったチャンインは泣き出しそうになった。陳先生の話はさらに続く。
 「昨日おじいさんは自宅で勉強を教える、と言っていたわね。さぞ教養のある人なんでしょうね」
 「はい。じいちゃんは医者だから、家には本がいっぱいあります」
 「じゃあ、明日それを持ってきなさい」
 あくる日、チャンインは祖父の蔵書一冊を持ち出し、陳先生に渡した。半日後、チャンインはまた呼び出された。
 「とっても難しい本を読んでいるのね、あなたのおじいさんは」
 それは古文で書かれた中医学の専門書だった。先生はパラパラとページをめくると、ため息をついて本を差し出した。
 「もうけっこうよ。返しておきなさい」
 以降、陳先生は二度とこの件について触れなかったという。
 一方のシャオフォンさんは後年、自らの奇行を振り返ってこう語った。
 「大字報(壁新聞)や(毛沢東)語録ばかりを読まされるおまえたちがふびんでなあ」
 「唐詩の一節、古文の一行も教えないでまったく何が教育じゃ。そんな学校など行かんほうがいいのだ」
 つまり、あれは映画を口実にしたボイコットだった。シャオフォンさんはかつて独学で科挙をめざした筋金入りの読書人だ。「読書無用論」を唱えて古典文学を否定し、革命思想をたたきこむ当時の教育はさぞ見るに耐えないものだったにちがいない。そして、陳先生もまたシャオフォンさんの古い蔵書を手にした時、その真意に気がついたのではないだろうか。だからこそ黙って本を返したのだと、私には思えてならない。

かんばやし・さなえ…1978年生まれ、奈良出身。京都外国語大学中国語学科卒業。上海在住7年目。中国人の夫と姑との3人暮らし。

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□新連載
【とろんのPAI通信】 第12回

どっこいどっこいの巻き 前編

写真
 祭りでお店(太一や)を出している
 愛妻はるか&太一
 前回は愛妻はるかの誕生日にまつわる話を描いたので、今回は彼女と出会ってプロポーズするまでのドラマティックな話を描いてみたいな。
 彼女はオランダ留学を含めた2年間の短大生活の後、銀座にある大手企業でOLとして6年間勤めていた。そして(何かに突き動かされるように)突如と会社をやめて、地球一周の「ピースボート」に乗って3ヶ月間の船旅に出た。船を降りた後、信州の山小屋でアルバイトをしていた時、やはりなぜだか(何かに突き動かされるように)実家のある新潟県長岡市に向かう。そして、長岡市に着いて3日後に突如と巨大地震が起こり、実家も全壊し、家族全員、唯一残されたガレージの中で冬を迎えることになる。今からちょうど、3年前の話だ。
 そして、その巨大地震と共振して(何かに突き動かされるように)家族の猛反対をおしきって再び日本を離れて、一人、旅に出る。寒くなる長岡でのガレージ生活から逃げるように、年中トロピカルなタイに向かう。山小屋で出会った友達の一人が「タイに行くなら北部の山の町PAIがいい」と薦めてくれたので、首都バンコクに飛んだ後は、ひたすら北上してゆく。
 そのころのボクはPAIに3年半住んでいて、半年間の竹と木と葉っぱのゲストハウス生活を終え、3年間住んだタイル張りのキュートな青い一軒家に別れを告げて、ムーンビレッジに竹と木と葉っぱの新居を作って住み始めたころだった。新居は高さ2メーターの高床式で、板張りの広いベランダがあり、ロフトを寝室にしていた。新居の裏には小川が流れているので、夜はそのせせらぎを耳にしながら眠りに落ちてゆく。ムーンビレッジで村づくりを始めて2年以上もたったころ、なぜだかボクも(何かに突き動かされるように)突如と新居を建てる位置や方向が明確になり、一気に頭の中に新居のデザインが出てきてしまったのだ。それまではタイル張りの青色のキュートな家がひどく気に入っていて、ムーンビレッジに家を建てて住む気など全くなかったのに……。
 新居に移ったボクは、またもや用もないのに(何かに突き動かされるように)古都チェンマイに向かった。
写真
早起きのボクにあてた朝市場での買い物リスト
(いつもイラスト付で、今回のは友人の夫婦喧
嘩への彼女のコメント)
 ボクはレックゲストハウスという広い中庭のあるところに泊まっていて、夕方、その中庭のテーブルでインドの長い竹笛を吹いていた。左後ろ側に強く何かを感じて、竹笛とともにゆっくり首を左にまわしてみると、そこに鼻筋の通った楊貴妃のような美女が背筋を伸ばして座っていて、同じタイミングでボクの方へ首を右にまわしてきて、あ!!! っと二人の瞳が交差する。一瞬の瞳の出会いにとまどいながら、首を元にもどして笛を続けた。竹笛が終わって左後ろ側に再び向いてみたら、手品のようにその存在は消えていたけど、なぜだか「彼女は必ずムーンビレッジにやってくる」という強い確信が湧き起きてきたのだ。
 そして、幻のようにボクの前に出現して消え去ったその美女とは、その時に一瞬目があっただけで、翌日の早朝、ボクはPAIに戻った。そのPAIへ戻る山道のバスの中で、ボクはインドのベナレスで出会った預言者の言葉を突然思い出した。「君は自分でデザインした自然素材の大きな家を建てたとき、最終的なパートナーが現れる」。
 そのボクがデザインした大きな高床式の家に戻った二日後のお昼ごろ、昼ごはんを作ってベランダで食べていると、ムーンビレッジの入り口の石段から、その幻の楊貴妃があ!!! っと、現れた!!! 2メーターの高床式のベランダの下まで彼女がやってきたとき、ボクは今度はじっと彼女の瞳から目を離さないで、ベランダの上から「やあ!!! キミがここへやってくるのをずっと待っていたんだ!!!」と(何かに突き動かされるように)ひとりでに言葉がでてしまった。その美女は翌日からボクの新居の隣に建てた3軒長屋のひとつに住み始めることになり、ボクの運命の糸に近づき触れ、まだ産まれぬ太一が遠く宇宙の果てからボクらの運命の糸を操り始める。
 次回の後編ではプロポーズするまでの運命の展開力を描いてみるね。
  とろんより、愛、をいっぱい!!!

とろん…1969年高校卒業直後、フランス郵船に乗ってインドに上陸し地球放浪を始める。帰国後、専門学校、大学、夫などを中退しながらも、旅と文筆とライブ活動を続行し、今に至る。著書に『純粋単細胞的思考』『まるだしのエクスタシー』『とろんのダイジョーぶ経典(スートラ)』(共に、晩聲社刊)があり、この3年間は『とろんのPAI通信』を(なまえのない新聞)に連載中。2001年、50歳のときにタイのPAIに流れ着き、MOON VILLAGEという村つくりを展開しながら、(くるくるPAIバンド)を率いPAIでライブ活動中。

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□連載
【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】 第24回

鈴木邦男→和多田進

強い時もあるし弱い時もある

 申し訳ありません。確かに言葉の使い方が杜撰(ずさん)だったと思います。「強い」「弱い」なんて曖昧な概念ですね。不用意にこんな言葉を使ってしまい恥じ入るばかりです。反省しています。
 右翼の先輩・野村秋介さんにも叱られたことがあります。「言葉は正確に使え!」「自分の言った言葉には命をかけろ!」と。「粉砕」「打倒」「死守」などという言葉を軽々しく使うな、と言うのです。それまで僕らは(いや、僕ですね)、「○○来日阻止!」とか、「○○条約粉砕!」などと、スローガンを叫び、新聞に書き、ポスターを作り、街に貼ってきました。
 一水会の講演会で野村さんに話をしてもらった時、開口一番、叱られました。会場には、その手の過激なポスターが貼られていたのです。「阻止できなかったら、どうするんだ。どう責任をとるんだ」「死守とは死んでも守るということだ。守れないなら死ね!」と。
 驚きました。そんなことを言われたのは全く初めてです。右翼の先生、先輩にも言われたことはありません。「何て、カタイことを言う人だろう」と一瞬、反撥しました。これは景気づけの為のスローガンだ。過激なことも書くさ。実現できなかったからといって、いちいち死んでいたんでは命がいくつあっても足りない。大体、運動なんか出来やしない。そう思いました。
 多分、その場にいた人は皆そう思ったはずです。「今日の野村さんはどうかしてるよ。こまかい事を言わないでよ」「言葉尻をとらえて怒鳴るなんて大人げないよ」と。でも面と向かっては言えません。皆、下を向いて、じっと聞いていました。

写真
道24・東京・神田和泉町(写真・WATADA)

 あれから10年以上たち、僕たちはやっぱり杜撰だったなと思います。大本営発表や当時の戦意昂揚のスローガンはひどかったと思うくせに、僕らも同じことをやっていたのです。本当は信じていないけど、皆にハッパをかけ、やる気を起こさせる為に、この位オーバーに言わなくちゃ。そう思っていたのです。過激なスローガンを書き、そのスローガンを皆で叫ぶ。そう、シュプレヒ・コールと言いましたね。そんな中で自分の体内にも力が湧き、力が漲(みな)ぎり、強くなる。そんな気がしたものです。
 肉体的・精神的にも強くなる。そして敵に向かう。それこそが右翼の運動だと思いました。「強い」とは何か、ロクに考えないままに、「強い男」になろうと思いました。
 新左翼の人たちは、「革命的である」というのが個々人の目標だったでしょう。自分を革命化する。革命的人間になる。それで強くなれる。そうなれない人は弱い人であり、排除された。そんなふうに思います。
 右翼は、「よき日本人」たらんとします。自分の生き方が「日本人」の原型だと思います。そうなるように努力します。そのために「強く」なろうとします。いや、「強い日本」「強い日本人」が理想で、その代表的存在に自分がなる。そう思っています。少なくとも僕自身はそう思ってきました。
 「日本は正義の国だ。強い国だ。間違うことはない。批判する奴は許せん」と思っていました。これでは、今のネット右翼と変わりません。「他人を批判・罵倒するだけで、ネット右翼はダメだ」と僕は言ってきましたが、僕自身もネット右翼と同じだったのです。恥ずかしい話です。
 でも、日本だって間違うし、強い時もあるし、弱い時もある。最近は、そう思っています。人間だってそうでしょう。根本的に「強い人」「弱い人」なんて言うことは出来ないのでしょう。
 8月15日、ロフトプラスワンで前田日明さん(格闘家)のイベントがあり、僕も出ました。真樹日佐夫さんも出ていました。真樹さんは作家で、空手道場の師範です。劇画『ワル』の原作者で、『実録・地上最強の空手』などを書いています。故・梶原一騎さんの実弟です。そこで驚くべき話を聞きました。強い格闘家と言われる人も実は内面は弱い。金に弱い、女に弱い、名誉に弱い……と。そして、真樹さんの著書『格闘家は女々しい奴が9割』(東邦出版)をもらいました。その時のショックが余りにも強かったので前回のような文章になったのだと思います。すぐに影響されるのです。でもこの本だって、格闘家がなぜこうも純粋で、傷付き易いのかを書いているので、単に「強い」「弱い」だけで判断しているわけではありませんが……。そこまで理解できず、タイトルだけで勝手に判断し、結論づけた僕が愚かだったのです。申し訳ありませんでした。

2007年11月2日


すずき・くにお…1943年福島県生まれ。67年早稲田大学政治経済学部卒業。70年同大学院政治学専攻科中退。70―73年サンケイ新聞社勤務。72年「一水会」設立、代表。99年同顧問。著書に『新右翼―民族派の歴史と現在』(彩流社)、『夕刻のコペルニクス』(扶桑社)、『言論の覚悟』(創出版)、『公安警察の手口』(筑摩書房)、『愛国者は信用できるか』(講談社)など。




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■インフォメーション

ポータルサイト北海道人更新情報

連載【となりの北海道人「私のお父さん」 第29回】
 北海道出身、または現在北海道にお住まいの4人の方に、ご自分のお父さんについて語っていただくコーナーです。今回もいい話、ジーンとする話でいっぱいです。「私のお父さん」は下記アドレスにアクセスしてお読みください。

http://www.hokkaido-jin.jp/issue/dad/101.php?no=029

北海道「食のサポーターが行く!」を更新しました。
 道内各地に眠る食材の発掘などを目的とした「食のブランド」発見交流会。第5回目は後志支庁で開催されました。北海道洞爺湖サミットを来年に控え、隣接する後志支庁も世界に“後志の食”をアピールしようと活気づいています。食のサポーターと生産者の双方から質問が飛び交った「食のブランド」交流会のレポートは下記アドレスにアクセスしてお読みください。

http://www.hokkaido-jin.jp/issue/food/05/




■次号予告
 プロ野球の日本シリーズは終わりましたが、北海道民は息つくまもなくコンサドーレ札幌のJ1昇格の行方を見守る体勢に入らねばなりません。かぶりものはBBからドーレくんにチェンジすることをお忘れなく!
 次号のメルマガラインナップは、田野城寿男の「楽譜のいらない音楽授業」と岩崎稔の「大陸人の時間」です。
『メルマガ北海道人』第45号の配信は、11月15日(木)です。

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