メルマガ北海道人

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『メルマガ北海道人』第32号 2007.08.16. ―「北海道人」、夏、極まれり―
 気温が25度を超えたあたりから、アーツァツァツァツァツァツァと鳴き始めるエゾアツァツァツァ蝉。真夏日、猛暑日になるとその鳴き声も最高潮に達します。どこで鳴いているかと思いきや、家の居間のソファーにゴロリと横たわりながら扇風機の風で羽根をそよそよさせていたり。よく見るとそれは、母だったり父だったり自分だったり……。アツイアツイと早口で言っているうちに、アツアツアツァツァ、アーツァツァツァツァとなってついに蝉になる。お宅にもエゾアツァツァツァ蝉、いませんか?
 もう思い残すことはありません、2007年夏。『メルマガ北海道人』第32号配信しますっ!

となりの北海道人『私のお父さん』




■もくじ

連載【上林早苗の『上海日記』】

 チャンイン研究が始まってから早半年が経ちました。今回は、上林さんが満州鉄道に勤務していた自分の祖父とその家族について語ります。終戦直後、満州から引き上げる途中で家族が体験したものは……。それはじっとりとかいた汗がスーっとひいてしまうほどのすさまじさです。

連載【とろんのPAI通信】

 8月6日、まつりの只中に、とろんさんの初めての子である太一くんが満一歳の誕生日を迎えました。出産までの様々な決意、出産に立ち会ったときの驚きなど一年前を振り返ります。8月6日は原爆の日。広島で被爆したとろんさんの両親は同じ日に生まれた新しい生命に何を感じたのでしょうか。

連載【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】

 「論理の人」葦津珍彦氏。しかし、最近ちょっと違うなと思うようになった、と鈴木邦男さんは言います。その心の底にあって葦津氏を突き動かしていたものについて、また、和多田進が疑問を抱いた孟子思想との関連について鈴木邦男さんが答えます。

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□連載
【上林早苗の「上海日記」】第十三回

「人民とは誰のこと?」

 「金好き、肉好き、女好き」を公言し、「3度の結婚」を誇りとする元同僚チャンインがこれまでどんな人生を歩んできたのか。その過去のすべてを知ろうというなかば趣味的な企画を中国上海からお届けして、はや半年になる。本来は本編前の準備体操にと宮廷医だった曽祖父の話から聞きだしたのだが、つい話に夢中になり、士官学校を逃げ出した中医の祖父、7人兄弟で唯一生き残った母、そしてその母が父と出会ってチャンインをおなかに宿すところまで、気がつけば出生前の70年だけでなんと半年を費やしてしまった。いまや本人からは「俺はいったいいつ出てくるんだ」と舌打ちされる始末である。
 ただ、成り行きでつづってきたこのやや冗長なプロローグは私にとって大きな意義があったと思っている。
 彼の祖父一家の生活はまずそれ自体が「生きた中国近代史」だった。盧溝橋事件の影響による疎開や、日本軍の物資統制による米不足があり、抗日戦争終結後には国共内戦による深刻なインフレに苦しめられた。さらに中華人民共和国が成立してからは社会主義化にともなう診療所の廃業や転職など数年単位で目まぐるしい変化があった。そのなかで私の心に残ったのはやはり日本の侵略時代の話であった。
 個人的な話になるが、私の父方の祖父はかつて旧南満州鉄道の書記課にいた。大学で中国語を専攻し、卒業後すぐに当時の花形企業だった満鉄に就職、旧満州に渡った。東京の米問屋の娘だった祖母との間には2人の男児をもうけ、私の父はその次男である。父は終戦直後の1945年10月、長春(当時は新京)から逃げてくる途中で生まれ、直後に一家4人で引き揚げてきたと聞いている。
 祖母が私の母に語った当時の逃避行談は実にすさまじい。ある日、産婆が「赤ちゃんといってもなかなか死なないものねえ」と言い出した。何かと思えば、たった今、取り上げたばかりの嬰児の首を絞めてきたのだという。運よく国に帰れたとしても育てられるあてがない。彼女はそんな赤子の両親に頼まれ手を下したのだった。引き揚げ船では「ポチャン」「ポチャン」という音を聞くことがたびたびだった。赤子が漆黒の海に投げこまれる音だった。

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夏は歩道に野宿する人が激増。この男性は携帯メールに夢中になっていた(馬当路)

 7年前の冬、当時の戸籍を頼りに父と長春の自宅住所を訪ねたことがある。父はそれまでも残留孤児のニュースを見るたび亡き両親に感謝していた。一軒のさびれた床屋となったその地点に立つと、寒さで不機嫌な私をよそに父はこうつぶやいた。
 「これでお父さん、お母さんに恩返しできたなあ」
 その感激たるや、おととし本人が臨終まぎわに発表した「この一生でうれしかったことベスト3」に入選したほどであった。
 が、しかしである。
 「あなたのおじいさんは中国に来ませんでした?」
 チャンインの母・シューリャンさんにそう聞かれた時、私はハッと言葉に詰まった。そうだ。我が家の「満州」に対する郷愁は我が家でだけ通用するのだ。あの時代にこの大地で暮らした日本人が中国の人々にとって何を意味するか、それは明白である。本人がどのような人格の持ち主で何を考え、どう行動していたかとはまったく別の次元で、私の祖父は「侵略者」もしくは「闖入者」の一人だった。もし友人の家族史を生きた中国近代史とするなら、私の家族の経歴は暗い日中近代史を反映していたと言えるだろう。祖父がチャンインの両親祖父母にまったく影響を与えなかったかと聞かれたら私には答える自信がないし、シューリャンさんの言う「人民」という名の傘に入る資格が孫の私にあるのかも怪しい。そもそも「人民」とは誰のことだろう。歴史とはどんな関係にあるのか。ついそんなことを考えてしまう。
 いつだったか、自分を含めた上海在留邦人5万人には「オールドシャンハイ」について郷愁とともに覚えておくべき歴史があるのではないかと言った。しかし、そう言う私には中国の近代史を勉強するべき理由がもっと身近にあった。もしこの企画がなければそれに気づかず、単なる「家族の思い出」として片づけて目を背けたままだったかもしれない。そう思うと、チャンイン親子には心から感謝したい気持ちである。
 次回からはいよいよ「チャンイン編」がスタートする。今後、いったい何が出てくるのか。怖いけど、でも見たい。ビックリ箱をのぞくような気分である。

かんばやし・さなえ…1978年生まれ、奈良出身。京都外国語大学中国語学科卒業。上海在住7年目。中国人の夫と姑との3人暮らし。

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□新連載
【とろんのPAI通信】 第6回

「太一満一歳誕生会!!」

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うまれてすこしたった太一
 今日は8月6日(月)で、ボクの初めての子の満一歳の誕生日。7週間の祭(たましいのかくじっけん)も1ヶ月経ち峠を越えてあと19日となった今、いよいよ臨界状態に達していて、さらにボクの中の気が高まってきている。
 太一は一年前の8月6日の朝9時36分に産まれでた。体重3330グラムで47センチの身長。PAIには大きな病院があるので、そこで母子手帳を作ってもらい定期的に母体の検査を受けながらも、いつの日かボクらは(出産は我が家で!!)と強く決心していたのだ。出産についてはまだなにも知らないころ、妊娠したあとボクらは(出産は病院で)としか考えられなくって、環境のいいメーホンソン(首長族で有名な町でPAIからバスで4時間)までいってベストな病院を探したりしていた。
 そんな中、妊娠を聞きつけた日本の友人たちが出産に関する本を次々と送ってきたので、勉強大好きなボクは片っ端から赤線を引きながら読破していった。当然のなりゆきで自宅出産経験者のホームページを何件も見る機会ができて出産の知識も高まる中、PAIに住む女友達の(みやさん)から(とろんさん、どうしてムーンビレッジの家で産まないの???)と強く言われてギョ!!!とした。彼女は今は別れたけどイスラエル人との間に(まや)という女の子がいて、タイの南の島で自宅出産した経験者だ。
 出産は我が家で!!と二人で決めた後は、もう心が揺らぐことはなく、二人でひたすら安全な自宅自然分娩を目指した。そして妊娠5ヶ月の安定期の時ボクらはインドに渡って、ダライラマの住むダラムサラという町に2ヶ月住み、二人で朝からヒマラヤの山道を毎日歩き続けた。空気の澄んだ聖なる空間に身と心をおき、自然出産のための体力作り、本番に向かう心の準備、そして何故だか出産前に胎内にいる子供と一緒に3人でインドを旅したかったのだ。
 8月5日の夜8時ごろから定期的な陣痛が始まり、13時間後の朝この世に出てきた。愛妻はるかは、ロフトに通じる我が家の階段を両手でしっかりつかみながら、立ったまま我が子を産んだ。ボクは我が子の頭が外に出ようとするのを見て(もう毛が生えてる!!!)とびっくりしていると、あ!!!っという間にツルリとボクの手に落下してきてさらにびっくり。そして究極のびっくりは、出産直後にへその緒がつながったままの胎盤があ!!!っと出てきた時だ。本で学習していたのでその存在はしっていたけど、実際のその存在の大きさと異様感に危うく失神しそうになってしまった。
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一歳ちょっと前の太一
 8月6日は広島の日。一等最初に病院で言われてた出産予定日がこの日で、ボクも岡山に住む両親に予定日を告げていたので、この日はずっと母も父も祈り待っていたみたいだ。何しろ二人とも1945年のこの日に広島で被爆していて母の両親はこの日に亡くなっているので、自分の初孫が8月6日にこの世に出現してくることに、すべての過去を(光)に向かって清算できる(ドラマ)を感じていたのだろう。
 この原稿を描くために早朝4時に起きたら、こんな雨季のただ中なのに夜空にキレイな半月と星たち。7月7日七夕のボクたちの結婚式の日も半月で夜空は快晴で銀河がクッキリ!!!太一の産まれたムーンビレッジでの満一歳の誕生会。ドラマティックに産まれたお祝いだから、きっと今日も予期せぬドラマが展開されるのだろう。
 続く8月9日、長崎の日にボクらは田植えをする。そして15日の終戦記念日には、65年前に日本軍が残した鉄橋(メモリアルブリッジ)の上で日本とタイのアーティスト&ミュージシャンで祈り演奏する。かつては戦場の橋を(心と心をつなぐ架け橋)にしたいな。タイの文部省やシンハビール(日本のキリンビール的存在)もスポンサーになっていて、いま各方面から注目されていてフシギな感じ。なにしろ6年前にPAIにきた後もしばらくはこの鉄橋の存在すらしらなかったボクなのだから。時空を脈打つ全てのイノチの(展開力)にただただ驚き脈打たれ感謝するばかりの日々。
  人生中毒のとろんより。

とろん…1969年高校卒業直後、フランス郵船に乗ってインドに上陸し地球放浪を始める。帰国後、専門学校、大学、夫などを中退しながらも、旅と文筆とライブ活動を続行し、今に至る。著書に『純粋単細胞的思考』『まるだしのエクスタシー』『とろんのダイジョーぶ経典(スートラ)』(共に、晩聲社刊)があり、この3年間は『とろんのPAI通信』を(なまえのない新聞)に連載中。2001年、50歳のときにタイのPAIに流れ着き、MOON VILLAGEという村つくりを展開しながら、(くるくるPAIバンド)を率いPAIでライブ活動中。

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□連載
【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】 第18回

鈴木邦男→和多田進

「孟子の思想と葦津先生の夢」

 難しい問題ですね。葦津先生は「論理の人」です。レンガをひとつひとつ、積み重ねるように論理を積み重ねてゆく。情緒には流されない。だから和歌もよまなかった。又、抽象的な言葉でごまかさなかった。そう思ってきました。だから貪るように読んできました。
 ところが、最近、ちょっと違うなと思うようになりました。「論理の人」だけではないと思ったのです。その底にはもっと精神的なものがある。<意思>というか、<夢>というか、<使命感>のようなものです。
 考えてみれば当然のことで、どんなに論理的な人だって、論理のために論理を作っているわけではない。初めは感覚的、情緒的なものがあって、その好悪感を他人に説明するために論理というレンガを使っている。三島由紀夫は、天皇制を護(まも)りたいと思い、それを美的な面から論理化し、『文化防衛論』を書いた。僕らは学生時代、「革命が起こったらたまらない」という生物的恐怖感から全共闘に反対し、闘いました。

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道18・佐渡(写真・WATADA)

 葦津先生については何でしょうか。「天皇の弁護人」という立場、使命でしょう。前に書きましたが、鶴見俊輔さんに葦津先生は言ってます。
 <敗戦と米軍占領をむかえて、これから自分は天皇の弁護人になろうと思った。弁護人の役割を自分でひきうけたからには、被告について不利なことは言わない。だが、天皇のもつ悪い面を知らないということではない>

 これに尽きてると思います。「天皇のもつ悪い面」について聞いておくべきだったと思いました。これは残念です。ともかく、「天皇の弁護人」として、その為ならば、あえて、「論理の飛躍」もやったのではないか。そんな気もします。「それは違うよ、鈴木君!」と葦津先生に叱られそうですが。
 確かに、葦津先生は孟子の思想を支持しています。論理的な先生にしては珍しく、孟子の「多数決思想の無視」に同調しています。さらに孟子について言います。
 <かれは天下の政治は、人民のための仁政を行うとの「天」の意思によるべきものだと信じた。この天意に一致するとかれ自らが確信するときには、ただ一人でも千万票を無視するこの宣言である。かれにあっては、天下の政治意思は、直接にそのままにかれ一人の良心的意思と一致している>

 「では誰が孟子になり得るのか」という長老の疑問も当然です。僕もそう思います。「七千万人の人間が孟子のように主張したらどうなるのか」というのも当然です。これは葦津先生の「見果てぬ夢」であり、「理想」でしょうね。日本にあって、「天」の意思は天皇でしょう。天皇の中に全ての日本の理想がある。それを顕現するのが草莽の士であり、国士なんでしょう。だから、「七千万票を無視」する覚悟を持て、と言うことでしょう。いわば、「運動家の不退転の覚悟」を言ったのでしょう。「千万人と雖(いえど)も吾往かん」です。でも、誤解されやすい表現です。理想や覚悟の次元で話していればいいのですが、現実の政治や投票について言及しているからです。
 これでは、「我こそ天の意思を体現している」という「国士」や「愛国者」を甘やかすことになるでしょう。たとえば、「天誅」という言葉があります。昔は僕もこの言葉を使っていました。国に仇なす人間を殺すということです。でも正確には「天にかわって」誅するのです。では、天にかわれるだけの人がいるのでしょうか。いません。だから、天誅(=テロ)の思想は否定されるべきです。
 ある時、このことにハッと気付きました。テロにおいても、投票においても、天にかわれる人はいません。ただ、心の中で、ひそかに、「千万人と雖も吾往かん」の信念を持つのは自由ですが……。
 「天皇親政」という言葉があります。天皇に自ら政治を執ってもらうということです。「君民共治」という言葉もあります。天皇の政治を民がおたすけするという言葉です。理念としては分かりますが、これからは無理です。5・15事件の三上卓さんや野村秋介さんは選挙に出て、敗れました。「千万人と雖も吾往かん」の信念は持ってました。しかし、票が取れなければ落選するのです。これが冷厳な現実です。選挙のことは、選挙の次元で考えるしかないのでしょう。それについては又、考えてみます。

2007年8月6日


すずき・くにお…1943年福島県生まれ。67年早稲田大学政治経済学部卒業。70年同大学院政治学専攻科中退。70―73年サンケイ新聞社勤務。72年「一水会」設立、代表。99年同顧問。著書に『新右翼―民族派の歴史と現在』(彩流社)、『夕刻のコペルニクス』(扶桑社)、『言論の覚悟』(創出版)、『公安警察の手口』(筑摩書房)、『愛国者は信用できるか』(講談社)など。


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■インフォメーション

ポータルサイト北海道人更新情報

連載【となりの北海道人「私のお父さん」 第23回】
 北海道出身または現在北海道にお住まいの4人の方に、ご自分のお父さんについてお話しいただくコーナーです。今回は、几帳面でいたずら好きで長老みたいで頑固なそれぞれ4人のファーザーのお話です。

http://www.hokkaido-jin.jp/issue/dad/101.php?no=023

『心でつくる』に新商品が加わりました
 『北海道人』では、社会就労センター(授産施設、小規模作業所)で作られた商品をHP上で販売しています。  今回は、わかふじ寮、第2わかふじ寮で製作された、「積み木トラック材木屋」「引き車パズルボックス」「ニレイス」「耳付き座卓」などの木工製品が新たに加わりました。

http://hokkaido-jin.jp/issue/jyusan/itemlist.php




■次号予告
 次号が配信される頃、北海道に夏は残っているでしょうか。みなさんの「夏満喫チェックリスト」にモレはありませんか? 今年は夏を楽しんだ、いや楽しみすぎた、ぐらい言いたいものです。
 さて、次号のメルマガラインナップは、田野城寿男の「楽譜のいらない音楽授業」、岩崎稔の「大陸人の時間」、大竹正枝の「新・自然真営道」です。
 『メルマガ北海道人』第33号の配信は、8月23日(木)です。

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