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『メルマガ北海道人』第18号 第28号 2007.07.19. ―「北海道人」、自然からの恵み、そして祈り―
 早春に蒔かれた種や冬のうちから準備された苗が、徐々に実りの時期を向かえ、みずみずしい果物やおいしい野菜となって私たちの食卓に上るようになりました。自然へのまったくの感謝、携わっている方々への大きな感謝。
 さて、夏の夕暮れに吹く風はなんとも心地よいものですが、その風も強く大きくなると、人間に大きな被害をもたらすことがあります。大きな地球の表面にくっついて暮らす私たち。大地のダイナミックな動きや火山の活動が、時として災害というカタチで人間を苦しめることもあります。
 感謝と嘆き――。一つの頭の中でこれらの感情にどう折り合いをつければいいのでしょう。ただ“祈り”しか思い浮かびません。
 7月19日、『メルマガ北海道人』第28号を配信します!

となりの北海道人『私のお父さん』




■もくじ

連載【上林早苗の『上海日記』】

 恒例となっているチャンイン家への土曜訪問が、突然キャンセルされました。訪問予定だった7月7日は中国にとって特別な日でした。今回の舞台は、抗日戦争が終結した1945年の上海です。「生まれた時代が悪すぎたなぁ…」とは、チャンインのじいちゃんの言葉。

連載【とろんのPAI通信】

 7月7日、ついにいのちのまつり、アートのまつりが始まりました。全く眠れずに当日の朝を迎えてしまったとろんさん。7日早朝の天気は重い曇り空。さて、まつりは順調にスタートできたのでしょうか?!

連載【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】

 「芝田進午」の名前を久しぶりに聞いたという鈴木さん。学生だった40年前の、芝田進午をめぐる記憶が生々しく綴られます。さらには、「進」と「邦男」の名前の理由、運命的とも言える名前の秘密について分析します。

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□連載
【上林早苗の「上海日記」】第十一回

「解放前夜」

 7月6日、金曜の夜のことである。チャンインからおそろしく短いメールが携帯電話に届いた。
 「明日、急用ができた」
 いまや恒例となった土曜訪問のキャンセルである。はて、どうしたのだろう。2007年7月7日で「7」続きのめでたい七夕だから愛しい細君とデートでもするのだろうか。翌々日、当人に会うや用事の内容を問いただしてみた。
 「いやあ、テレビを見たくてな。ほら、昨日は抗日戦争開戦60周年記念日だったろ?」
 そうだった。60年前の7月7日、盧溝橋で日中の軍隊が武力衝突。この日を皮切りに「抗日戦争」、日本でいう日中戦争がはじまったのである。チャンイン研究のため、つい最近までこの時代の資料と首っ引きだったというのに、まったくうっかりしていた。当日、シューリャンさんはさも感慨深げにこう言ったらしい。
 「日本の娘さん、今日という日はさすがに来づらかったんだろうねえ」
 今後は七夕のたびに盧溝橋とこの友人の母のことを思い出しそうな気がする。

写真
夜8時、赤信号で待機中の男性(合肥路)

 さて、その抗日戦争が終結した1945年の上海である。日本の傀儡政権・汪兆銘政府に代わって政権を握ったのは蒋介石の国民政府だった。街は100年ぶりに中国人の手中に返ったのである。ただ気になるのは汪政府の職員であったシューリャンさんの夫・チョンカンさんだ。この時、その幹部や役人の多くが日本側に加担した「漢奸(売国奴)」として次々と裁きを受けていた。彼は無事だったのだろうか。シューリャンさんは笑う。
 「ええ、あの人は下っ端でしたから」
 政治的問題なしと判断されたチョンカンさんは、そのまま国民政府の職員として採用された。
 その国民党による新しい時代が人々に平和をもたらしたかといえば、そうではなかった。1946年、共産党と各地で火花を散らすようになると、国民政府は軍事支出に押されて財政が破綻。アメリカからの借款・援助や増税、法幣の乱発など、無理な解決策によって貨幣の価値が下がり、物価が高騰した。そうして空前絶後の悪性インフレが上海市民を襲ったのである。
 物価は賃金をはるかに上回るペースで上昇した。工業は不況に陥り、失業者が激増、街には病気と飢餓がまん延した。資料によれば、1946年から中華人民共和国成立までの3年間で上海の伝染病による死亡者と路上で収容された死亡者は合わせて12万7000人に上ったという。以前、シューリャンさんがチャンインと口論した際に「国民党時代に餓死者や凍死者を多数見た」と言ったのはこの時期のことだった。
 シャオフォンさんが自宅近くの共同便所に向かっていた時のことである。タバコを切らしたことを思い出して雑貨屋に足を向けかけたが、「帰りにしよう」と思い直した。ところが、用を足した後に店を訪れると、その値は倍になっていたという。
 こんなこともあった。自宅近くにある商店二軒のうち、近いほうの店は物価の変動をいち早く察知し、商品の値上げをしていた。ところが、ほんの数十メートルしか離れていないもう一方の店は巷の動向を知らず、従来の値のままだった。これを知ったシャオフォンさんは安い方の店へと出かけ、涼しい顔で日用品をあれこれと大量購入。数日後、「なぜ(他店の値上げを)黙っていたのか」と店主から非難を浴びたそうだ。
 インフレは一家の暮らしを一変させた。30年以上にわたる診療所経営で貯めた巨額の現金は銀行で紙くず同然となり、かろうじて残った財産は妻チャンランさんが買った抗日戦争勝利記念の金の指輪二つとわずかな銀貨だけとなった。もとより金融機関を信用していなかった妻からさんざん愚痴を聞かされ、シャオフォンさんはその後、二度と銀行預金をしなくなったという。1947年、シューリャンさんはついに父の助手を辞め、曹家渡の薬局で常駐医師として働きだす。もはや一家にとって娘夫婦の月給だけが生命線となっていた。
 「生まれた時代が悪すぎたなあ…」
 シャオフォンさんは当時よくそう言って嘆いたそうだ。それがはたしてどんな気持ちなのか、それなりに順調に生きてきた私にはただ想像するほかない。
 この後、一家を翻弄する波はなお静まることなく、さらに人々を中華人民共和国という新たな時代へと導いていく。

かんばやし・さなえ…1978年生まれ、奈良出身。京都外国語大学中国語学科卒業。上海在住7年目。中国人の夫と姑との3人暮らし。

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□新連載
【とろんのPAI通信】 第4回

「七夕快晴 IN  PAI」

写真
六角堂での結婚式のあとの撮影シーン
 とにもかくにも4年前に突如と強く想いついた7月7日からの7週間のアートのまつり。その本番直前の7月6日の夜、まったくねむれないまま7日の朝を迎えてしまった。心は不思議なくらいおちついていたのに一睡もできなかったフシギな夜。そして早朝4時に外にでてみたら空は重い曇り空で、この睡眠不足のボクのあたまもさらに重くなってしまった。6日の夕方には(ワット メーエン)という山の上のお寺にはるかとボクと太一と友人2人の5人でお参りし、まつりの成功をお祈りしたし、昼間は六角堂で七夕の短冊に全細胞を込めて(七夕快晴!!)と祈り書きをした。それなのにその夜は一睡もできなくって(ボクの場合、睡眠不足が一番の弱点で、元気がなくなり生きる意欲も弱まってしまうのだ)本番7日の朝も曇り空。
 いつもの早朝の豆乳屋さんで、いつになくインスタントコーヒーを2杯飲み(それもでかいやつ!)日記に向かって、なんとかこの身と心と天気の最悪の状態に光を差し入れようとする。ボクの場合、いままでどんなに落ち込んでも何が起きても、日記に向かって書き続けることでその混乱状態をうまくまとめて、明るいほうへ向かってゆくことができた。今回も必死で日記に向かってみた。本番当日になっても、夜のステージをどこにするのか、和太鼓をどこに設置するのかも決められないでいた。すべては天の気次第で、雨なら六角堂で晴れたら野外ステージだけど、野外ステージにするにはすべての音響機材を六角堂からはこばなくてはならないし、照明もいるし屋根もつけなくてはいけない。この野外ステージ、日常生活では布団干し場になっているので、太陽があたるように屋根の骨組みだけをつくっているので、10m四方のビニールシートをかけるだけで屋根になるのだけど、この美しいムーンビレッジの風景にまったく合わなくって、ギリギリまで屋根なしのままだったし、できれば屋根なしでいきたかった。
 
写真
結婚式の翌日の朝、太陽の周りにデカイ虹が出現!!!
 朝9時の種まき。苗床にお米をまき、畑に花や野菜や果物の種をまく。この時点で30人くらいの人たちが来ていて、ボクは大急ぎでオシメを洗ったりして朝の日常お勤めパターンをこなしながら、11時の本番に向かってゆく。睡眠不足の頭の回転は鈍かったけど、ただただこの4年間に祭りに向かって積み重ねてきた余韻みたいな勢いに助けられて体が勝手に動いてゆくのだ。
 そして本番11時、アーティスト神田さおりのライブペインティングを背景にして音の儀式が始まる。ステージに座ったとたん嘘のように心が静まり、天の気と地のイノチを感じ嘘のようにボクの吹く尺八から思いのままの音がでてゆく。この落ち着きは一睡もできなかったおかげかも、と思えるようになり(このままでいいんだ!!)と天の流れになりゆきに身をまかせてゆく。結婚式にやってきてくれた人たちは150人くらいだけど、六角堂には100人くらいしか入れなくって、金の指輪交換の後、ひとりひとりに祈りを込めて、手首に白い紐をむすんでゆく。バイオリン、ギター、シルバーフルートでのバッハの(カノン)の演奏をききながら用意してあった108本の紐をむすんでゆく。そして、ケーキカット、フランス料理と展開してゆく。
 儀式がおわったのが12時半で、六角堂から外にでてみたら、青空がさらにひろがっていた。それに勇気づけられその勢いで食事の後すぐに野外ステージに取り掛かる。みんなが手伝ってくれて、音響機材の移動、照明、ビニールシートの屋根にとりつけ、音響チェックとあ!!!っという間に野外ステージができてしまった。そして3時から始まったさんしんの音色とリズムにのって嘘のようにどんどん音をたてて空が晴れてゆき、夜、ついに(七夕快晴)天の川がくっきりと見える。その快晴の夜空に向かって和紙製の7個の熱気球を放つ。この時点で400−500人の人ひとヒト。8日の朝、いつものようにオシメを洗って干そうとしたら、太陽のまわりにデカイ7色の虹が出現し、その場にいた祭りに来てたひとたちも、その嘘のような虹の出現の仕方にとまどい驚嘆狂喜していた。(すべてはこのままでいいんだ!)と再び確信させられてしまう。
 まつりがはじまるまでずっと雨だったのに、まつりがはじまってから5日目の今朝も空は快晴。個人の強い想いや祈りが天まで届く、ホントだよ。昨日10日はカラワンバンドというタイの有名ミュージシャンがムーンビレッジで歌ってくれた。500人くらいのひとたちがきてたけど、みんなゴミとかを片付けてくれて、今朝はとってもきれいだったなあ。4時間しかねてないけど、がんばろっと。さて、きょうは、ムーンビレッジでなにが起きるんだろう。
またもや(目にみえぬなにか)を確信できてよろこんでいる、とろんより。

とろん…1969年高校卒業直後、フランス郵船に乗ってインドに上陸し地球放浪を始める。帰国後、専門学校、大学、夫などを中退しながらも、旅と文筆とライブ活動を続行し、今に至る。著書に『純粋単細胞的思考』『まるだしのエクスタシー』『とろんのダイジョーぶ経典(スートラ)』(共に、晩聲社刊)があり、この3年間は『とろんのPAI通信』を(なまえのない新聞)に連載中。2001年、50歳のときにタイのPAIに流れ着き、MOON VILLAGEという村つくりを展開しながら、(くるくるPAIバンド)を率いPAIでライブ活動中。

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□連載
【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】 第16回

鈴木邦男→和多田進

「芝田進午さんをめぐって」

 鹿野政直さんの『日本の近代思想』(岩波新書)を読みました。2002年発行だから、5年前ですね。本の題名だけ聞いて、古い本かと勝手に思ってましたが…。しっかり出てましたね、「核時代」「ヒロシマ紀元」のことが。

 <芝田進午は、日本でヒロシマ紀元を提唱してきた哲学者である。87年、それまで十年来の思索を、『核時代』と題する二冊の書物にまとめるに当たり、序文の日付を「核時代42年5月」と結んでいる>

 原爆投下された1945年が新しい世界暦「核時代」元年なんですね。この年から世界は全く新しい時代に突入した、という事でしょう。
 「それは、マルクス主義者である芝田にとって、ソ連をも核大国として批判の対象とする思索であった」と書かれています。そうかマルクス主義者か。やはりあの芝田さんなのかと思い出しました。さらに、この本には長老のことが書かれています。

 <芝田進午の教えを受けた和多田進は、出版社である晩聲社の代表である。刊行する書物に「核時代」という年の表記を入れ始めた>

 長老は芝田進午さんの教えを受けたんですか。それで名前も「進」にしたんですか。そんなことはないか。これは偶然でしょう。でも名前には親の希望や願いが入ってます。「進歩的、革新的であれ」という願いのもとに育てられたのでしょう。「進」の付く人は皆、革新的というか、左翼的です。右翼には「進」君はいません。保男、国男、邦男…といった保守的、国家的な名前が多いです。1970年に三島由紀夫と共に自決した森田必勝氏は、1945年生まれ。それも敗戦の2ヶ月前です。そんな状況でも、「日本は敗けるはずがない。必ず勝つ!」という「祈り」というか「叫び」で親は「必勝」と付けました。この名前を付けられた時から彼の運命は定まっていたのかもしれません。

写真
道16・有田(写真・WATADA)

 ところで、芝田進午さんのことです。久しぶりにこの名前を聞きました。大学時代のことですから、もう40年も前です。私は右翼学生でした。左翼学生と毎日、論争し、殴り合いをしてました。左翼の主張に同感する部分もありました。しかし、「こいつらは日本に革命を起こそうとしてるんだ。その為に学生の不満を利用してストをやってるだけだ。騙されるな!」と先輩方に言われました。
 「革命が起きたら天皇制はなくなる。我々の自由もなくなる。我々は皆、処刑される」と脅されました。それに、こうも言われました。「こいつら左翼学生は自分達の考えでやってるのではない。学外からコントロールされているのだ」と。コントロールするのは日本共産党であり、あるいは反日共系の党派だというのです。具体的には誰だろう。誰が理論的な指導者なんだろう。そんな疑問を持つ私に先輩は教えてくれました。
 「それは、芝田進午だよ!」

  芝田はマルクス主義者で、日本の左翼学生に一番影響を与えている、と言うのです。その時は法政の教授だったと思います。早稲田でも教えてたのでしょうか。ともかく、「芝田進午」という名前は、途方もなく巨大で、怖い存在として当時、聞いていました。左翼学生に聞いてみても、尊敬し、支持している人が多かったと思います。
 でも、その<実体>は分かりませんでした。そんなに凄い人だったのか。「噂」や「畏敬」「恐怖」だけが独り歩きしてたのか。40年間、謎でした。長老にその辺りのことを教えて頂ければと思います。

 それと、「黄金バット」の加太こうじさんは実は僕も何度かお会いしました。同じ運動をやっている四宮正貴氏に紹介してもらいました。しかし、鶴見さんが書いている「若い編集者」は長老だったんですね。知らずに読んでました。
 それと、一番驚いたのは深沢七郎さんの名前が出てたことです。今、発売中の『論座』(8月号)に、深沢さんの『風流夢譚』事件について書きました。46年前の事件ですが、「天皇タブー」「言論タブー」の<原点>になっていると思います。「恐怖の原点」です。だから、1961年は「天皇タブー歴」元年です。本当は深沢さんに会いたかったのですが、会えずじまいでした。あの小説については本人は何も語らず亡くなりました。深沢さんの思い出なども聞かせて頂ければと思います。
2007年7月13日

すずき・くにお…1943年福島県生まれ。67年早稲田大学政治経済学部卒業。70年同大学院政治学専攻科中退。70―73年サンケイ新聞社勤務。72年「一水会」設立、代表。99年同顧問。著書に『新右翼―民族派の歴史と現在』(彩流社)、『夕刻のコペルニクス』(扶桑社)、『言論の覚悟』(創出版)、『公安警察の手口』(筑摩書房)、『愛国者は信用できるか』(講談社)など。


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■インフォメーション

ポータルサイト北海道人更新情報

連載【となりの北海道人「私のお父さん」 第21回】
 北海道出身または現在北海道にお住まいの4人の方に、ご自分のお父さんについてお話しいただくコーナーです。今回は幼児、小学生、会社員、病院ボランティア・コーディネーターの方々が登場します。

http://www.hokkaido-jin.jp/issue/dad/101.php?no=021




■次号予告
 7月も下旬になると北海道人は焦ります。北海道の夏は、あっという間だからです。とりあえずで水着になって、浮き輪をつけて、アイスとメロンとうなぎを食べて、風鈴飾ってうちわで扇いで、線香花火に火をつけて……、あと何か夏にやっておかなきゃならないことがあったら教えてください!
 さて、次号のメルマガラインナップは、田野城寿男の「楽譜のいらない音楽授業」、岩崎稔の「大陸人の時間」、大竹正枝の「新・自然真営道」です。
 『メルマガ北海道人』第29号の配信は、7月26日(木)です。

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