メルマガ北海道人

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『メルマガ北海道人』第26号 2007.07.05. ―「北海道人」、まつり囃子がきこえてきた!―
 この時期の北海道では、地元の氏神様のまつりから、特産物をアピールする○○まつりまで、とにかくたくさんのまつりが行われています。
 軽トラックにおみこしを乗せて走ることもあるようで、スピーカーから、ピーヒャラーという笛の音が聞こえたかと思うと、あっという間に目の前を過ぎ去って行きました。スピードが速いと、まつり囃子も、ぴぃ〜ひゃら〜♪とドップラー効果でなんだか不思議な感じがします。
 まつり囃子、イカ焼きの匂い、金魚、お面、型抜き、スマートボール……。
 まつりな感じで、ハレな感じで『メルマガ北海道人』第26号を配信します!

となりの北海道人『私のお父さん』




■もくじ

連載【上林早苗の『上海日記』】

 息子のチャンインによると、母シューリャンさんは、「曹家渡きっての美女」だったとか。そんな20歳のシューリャンさんには、お金や地位のある男性からの縁談がつぎつぎと舞い込みます。しかし、父シャオフォンさんは貧しい農村出身の青年を婿に選びました。今回はチャンインの父の青年時代の話です。

連載【とろんのPAI通信】

 7月7日のとろんさんと愛妻はるかさんの結婚式に始まり、7週間続くいのちのまつり。いのちのまつりの理由、とろんさんがとろんさんの理由。氷が溶けるがごとく、回を重ねる度にとろんさんの謎がゆっくりと解けていきます。ちょっと切ない第3回目のタイからの便りです。

連載【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】

 鈴木邦男さんと編集長・和多田進の間に思わぬ接点がありました。鶴見俊輔さんの『回想の人びと』には、鈴木さんのみならず和多田進にとっても大切な思い出が書かれていました。友だちの友だちは友だちだった……。編集長が今回はなんかとってもいい人です。あれあれ。

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□連載
【上林早苗の「上海日記」】第十回

「父の婿入り」

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この時期、競争の激化するスイカ屋。
大きなものでも日本円で一玉100円ほど。(合肥路)
 朝、起きると夫の母がズボンのポケットを真っ赤に染めて帰ってきた。出てきたのはなんと20個ほどのヤマモモの実だ。どうやら公園の木によじ登って失敬してきたらしい。毎年9月には花欲しさにキンモクセイに体当たりし、10月にはギンナン目当てにイチョウを助走つきで足蹴りする母。どうすればやめてくれるだろうと目下、対策を検討中である。
 シャオフォンさん一家の話を進めたい。
 話がやや前後するが、抗日戦争終結間際の1944年、20歳のシューリャンさんには続々と縁談が舞いこんでいた。なかには工場長や将校など、優れた地位や経済力の持ち主もいたが、父シャオフォンさんの眼鏡にかなう者は一人もいなかった。
 「金持ちは女房を大事にせんからいかん」
 そんなことを言っていた。
 ある日、シャオフォンさんの知人が友人の部下はどうかと話を持ってきた。相手は同郷出身で23歳の下級公務員だという。それがチョンカンさん、チャンインの父だった。
 チョンカンさんは1921年、江蘇省建湖の喬客庄に生まれた。喬客庄はその名の通り村民のほとんどが「喬(チャオ)」姓の貧しい農村だ。本家の系譜を見たというチャンインの話によれば、この喬氏はもともと陝西省咸陽にルーツを持つらしい。一族はやがて戦乱などによって各地に散り、うち元の時代に蘇州から流れてきた人々がこの地に住み着いたのだという。「喬客庄」とはつまり地方から客としてやってきた喬一族の村、という意味なのである。ちなみに村の出世頭は中華人民共和国の元外交部長(日本の外相に当たる)・喬冠華だ。帰省中だった彼に頼まれて、近所へタバコを買いに走ったことはチョンカンさんの生涯の自慢だった。
 チョンカンさんは四男一女の次男である。父は中医だが、アヘン常習者で収入の多くがその代金に消え、暮らしは困窮していた。小さな頃から勉強ができたチョンカンさんは兄弟でただ一人、高校まで進み、一家の未来を背負っていた。
 彼が高校卒業を控えた頃、抗日戦争がはじまっていた。世は極度の緊張状態にあった。とりわけこの蘇北一帯には日本軍と、その息のかかった汪兆銘(精衛)傀儡政権の和平軍、それらに対抗する新四軍という三つの軍が存在していた。チョンカンさんのところにも新四軍と和平軍が入れ替わるように訪ね、「ぜひわが軍へ」と勧めたという。しかし彼は考えた。
 「中国の新四軍と日本の和平軍。どちらに入っても死ぬことには変わりない」
 そこへ上海行きの話が転がりこむ。当時の上海は太平洋戦争開戦直前でまだ日本軍の完全支配下になく、いくらか安全だった。チョンカンさんはすぐさま移住を決めた。後年、彼はこの決断を振り返って息子チャンインにこうこぼしたそうだ。
 「新四軍に入っていたら、栄誉ある退役軍人になっていたのになあ」
 上海に着くと同郷人の世話でアメリカ系の滬江大学に入学した。しかし1941年、太平洋戦争がはじまると街は一変。混乱のなかチョンカンさんは食うにも困るようになり、2年生でやむなく退学した。汪兆銘傀儡政府の職員採用試験に合格したのは1943年のことだ。仕事は下級の文書係だった。
 シャオフォンさんはこの青年を気に入った。貧乏だが学があって、まじめ。それに中医の父を持ち、書の心得もあった。「字如其人」、つまりいい字を書く者は人柄もいいというのがシャオフォンさんの持論だったのである。
 もう一つ決定的だったのは、チョンカンさんが宿舎住まいだったことだ。夫婦にとってシューリャンさんはたった一人の子どもだ。よその家へ嫁がせるわけにはいかない。シャオフォン宅での同居は新婦側・新郎側の両者にとって願ってもないことであり、話はあっというまに進んでいった。それにしても花嫁・シューリャンさんに異論はなかったのだろうか。
 「考えたこともありません。当時は親の決定がすべてですから。あの人の姿は両親にあいさつに来た時にチラッと見かけたぐらい。きちんと会ったのは結婚式当日でした」
 1944年、2人は結婚。翌年には第一子を授かった。チャンインの姉である。
 「きれいな顔の女の子でした。でも急性肺炎にかかって、生後7ヵ月半で死んでしまった。今もし生きていたら・・・まあ、62歳だわ」
 租界が消滅し、日本軍が去った上海。しかし、ここから中華人民共和国成立までの4年間が人々にとってまた新たな試練の時代であった。

かんばやし・さなえ…1978年生まれ、奈良出身。京都外国語大学中国語学科卒業。上海在住7年目。中国人の夫と姑との3人暮らし。

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□新連載
【とろんのPAI通信】 第3回

「本番エクスタシー」

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ムーンビレッジの六角堂の屋根
 純金の結婚指輪、ボクと愛妻はるかと11ヶ月になる太一君の3人お揃いの純白ウエディングドレスも用意でき、一年前PAIで出会った本格的フランス料理人(たけちゃん)が7月7日七夕のボクらの結婚式で腕をふるってくれる。ケーキカットのシーンでは、約6年前PAIに現れた魅惑の女(あき)作の手づくりケーキが登場してくる。
 
 どこにいてもそうかもしれないが、特に自由な旅をしている時とか、自分にとっての(聖地)と呼ばれる場に身をおいている時とか、要するに自分にピッタリの(はまり処)にはまっている時、あたかもなにものかに仕組まれてるかのように怖いくらい物事がひとりでに展開してゆき、丁度いいタイミングでキーパーソンが自分の前に立ち現れたり(今)を揺るがす善悪を超えたハプニングが起きたり、いわゆる(ドラマ)がおきてくるからフシギだ。
 今回の結婚式は7月7日から7週間続行する(いのちのまつり)のオープニング儀式になるわけだけど、3度目の結婚で初の結婚式だから(3度目の正直)になると確信しているし、公私混同大好きのボクにふさわしいオープニングになりそうだ。23歳の時、大学を中退して復帰直後の沖縄に渡り、日本最南端の島(波照間島)で(よっこ)という旅人と遭遇し、第一回目の結婚をした。出会って一週間目に、やむにやまれず(ずっと一緒にボクと旅してほしい)と告白したら、彼女、なんのためたいもなく即座に(うん、イイよ)と答えてくれ、そしてボクのことをイキナリ突如と(とろん)と呼び始めたのだ。だから、この(とろん)という名はボクが23歳の時から始まり、すでに33年になるし、ボクの最初の本『純粋単細胞的思考』という本も(とろん著)になっていて、郵便物も(とろん)で届くし、本名(荒川 博)という呼び名はメッタに使わない。この本で(よっこ)との出会いのシーンを克明に描写しているので、ぜひとも読んでみてくださいね。
 23歳の時出会い、10年間インドや日本を旅し、32歳の時離婚し、そして離婚後10年して、乳がんであ!!!っと逝ってしまった。42歳でこの世を去ってしまったのだ。命日が3月15日で、そして、いきていれば、今日6月24日が57歳の誕生日だ。死んじゃって15年目の誕生日の今日、PAIの空は雨季なのに朝から快晴で、この原稿を祈りをこめて描き行く早朝の豆乳屋。そして今日、まつり会場ムーンビレッジに9本の(のぼり)を立てる。7色のレインボーカラーと純白2本。タイでは一番ラッキーな数が9で次が4、そして7と続く。日本では9と4はきらわれるのにフシギ。タイでの嫌われ数字は6、だ。
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亡き(たかし)作の石釜(横にお墓)
 ケーキを作ってくれる(あき)は6年前(たかし)という年下の男と旅していて、一泊か2泊のつもりでPAIに立ち寄って、運命的にボクと出会う。お互いがキーパーソンだったのか(くるくるPAIバンド)というバンドを彼らと始めて、お互いPAIの深みにはまってゆく。その(たかし)はマンドリンを弾き、ムーンビレッジで畑仕事をしながら『石釜の作り方』という本を片手に試行錯誤のあげく、粘土に象さんのウンチを混ぜて自分で巨大な石釜を作ってしまった。そのかぎりなく優しくこどもや女たちに人気のあった彼が、昨年3月13日に沖縄であ!!!っと自殺してしまったのだ。PAIでの生活費を稼ぐために毎年通っていた沖縄の製糖工場でのできごと。2本の純白の(のぼり)のうち一本はその(たかし)作の巨大な石釜の側に立て、もうひとつは、7月7日ボクの花嫁さんが登り行く六角堂の階段の側に立てる。
 そして残された(あき)。ボクたちの結婚式の一週間後の7月14日の新月の朝に、この純白の(のぼり)の立つ階段から花嫁衣裳を着て六角堂に登り行くのだ。それも3ヶ月前、ここPAIで産まれた(青)という女の子の赤ちゃんを抱いての結婚式だ。今は亡き(たかし)の石釜に立つ純白の(のぼり)に触れ通り過ぎ、六角堂の入り口に立つ純白の(のぼり)に向かう(あき)。転がり変わることが最大のエクスタシー、なむあみだぶつ。
毎日がどきどきワクワクのとろんより。

とろん…1969年高校卒業直後、フランス郵船に乗ってインドに上陸し地球放浪を始める。帰国後、専門学校、大学、夫などを中退しながらも、旅と文筆とライブ活動を続行し、今に至る。著書に『純粋単細胞的思考』『まるだしのエクスタシー』『とろんのダイジョーぶ経典(スートラ)』(共に、晩聲社刊)があり、この3年間は『とろんのPAI通信』を(なまえのない新聞)に連載中。2001年、50歳のときにタイのPAIに流れ着き、MOON VILLAGEという村つくりを展開しながら、(くるくるPAIバンド)を率いPAIでライブ活動中。

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□連載
【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】 第15回

和多田進→鈴木邦男

「もういちど『閑話休題』」

鈴木邦男さま

前略

 そうだったんですか。鈴木さんは葦津とそんなに親しかったんですね。知りませんでした。
 鶴見(俊輔)さんの『回想の人びと』は、出版されて私もすぐ読みました。本屋で『回想の人びと』という題を見たとき、ある直感が私に働いたんです。ある直感というのは、この本には私が私の身元引受人とさえ思っていた加太こうじさんのことが書かれているに違いない、ということでした。そして、その本を開くと、案の定、加太さんの項がありました。
 「『黄金バット』の“生きている江戸”」という見出しで加太さんが描かれています。変な話ですが、加太さんの本を最も多く手がけた編集者は私なのではなかろうかと思います。つまり、それほど加太さんに惚れ、加太さんに可愛がってもらったということです。いま思い出すと、『定本 街の自叙伝』『昭和大盗伝』『おんなの昭和史』『サボテンの花』『昭和犯罪史』…なんかは私が編集を担当した加太さんの著作なんですよ。それで、鶴見さんがその本に書いている加太さんの項の終わりごろに、こういう一節があります。
 「浅草にピーターというスナックがあり、そこの壁面に、(加太さんは)大正から昭和にかけての人物画を描いた。そこで故人(加太さん)をしのぶ会があったときのこと、若い編集者が、晩年加太さんを訪れて、用事を終わってもはなさない、テープを聴いてゆけという。テープは、桂文楽の『うまや火事』で、妻君の苦労話である。終わっても、何も言わないので、見ると加太さんは黙って泣いていた」
 ここにある「若い編集者」は私なんです。鶴見さんは私より23歳も年長ですから、鶴見さんから見れば私は「若い」ということになるんでしょう。書かれていることのディテールには鶴見さんの記憶違いがあります。しかし、加太さんのしのぶ会で私が短い挨拶をした内容の大筋はこの通りでした。

写真
道15・佐賀県有田(写真・WATADA)

 鶴見さんは覚えていないでしょうけれど、私は少しずついろんなところで鶴見さんと接点がありました。私が23か24才のころ、京都の鶴見さんのお宅に伺った際、当時としてはめずらしく2台の電話をお持ちだった鶴見家の電話番号をこっそり盗み見してメモして帰ってきたことや、鶴見さんと一緒に大江健三郎、小田実、深沢七郎等の各氏が金芝河を支援するために乗り出したとき、まだ26、27才くらいの若者だった私もその手伝いをしたことがありました。…あのころのことは、なんだか昨日のことのようにも、ずっとむかしの夢の中の出来事だったようにも、いまは思います。
 鹿野政直さんは鈴木さんの母校である早稲田の先生でしたよね。鹿野先生とはほんの短い出会いでした。いまは体調を崩されておられると風聞を聞きましたが。実に折り目の正しい、お目にかかるとただただ私などは恐縮してしまうような、学問を本当に大切にされている方です。
 今回は、なんだか嬉しくて、とりとめのない話になりました。これは、友だちの友だちは友だちだ、というような嬉しさなんですよ。そうそう、『民間学辞典』の「原理日本社」の項を鈴木さんがお書きになっているっていうこともはじめて知りました。その項を改めて読みました。
 実は、1年ほど前から、私はこの原理日本社について興味を持っているんです。特に蓑田胸喜という人物について。立花隆の『天皇と東大』が単行本になり、それを読んで私は蓑田を知り、後に佐藤優氏にも蓑田のことを教えられました。『諸君』の6月号か7月号かに佐藤優さんと復刻版『蓑田胸喜全集』の編者である竹内洋氏の対談が載っていましたね。佐藤さんたちによる蓑田の評価は、必ずしも立花氏や鈴木さんのとは同じではないようです。私は佐藤さんと鈴木宗男さんの共著『反省』は蓑田から学ぶところ大であったのではなかろうかとさえ思います。ともかく、私はいまだ蓑田の思想を知りませんので、この際、清水の舞台から飛び降りる思いで全集を買うことにしました。23万1000円。諸橋漢和辞典よりは安いものの、私にしては久しぶりの「大物」です。もうすぐ死ぬというのに……。
 次回はまた葦津の「論理」をめぐって考えることにしたいと存じます。暑さのおり、ご自愛ください。

草々

2007年(核時代62年)7月1日
和多田進拝

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■インフォメーション

ポータルサイト北海道人更新情報

連載【となりの北海道人「私のお父さん」第20回】
 北海道出身または現在北海道にお住まいの4人の方に、ご自分のお父さんについてお話しいただくコーナーです。涙あり、笑いあり、驚きありの4人のお父さんのエピソード。いろんな生き方、いろんな人生があるものです。

http://www.hokkaido-jin.jp/issue/dad/101.php?no=020

とろける果肉の夕張メロン販売開始!
 北海道のおいしいものばかりを集めたショッピングサイト「北海道物産店」で、夕張メロンの販売を開始しました。豊かな香りととろける触感がたまらない、赤肉メロンの王様“夕張メロン”をぜひどうぞ。お中元用、ご自宅用ともにご用意しております。

http://bussanten.hokkaido-jin.jp/wd_top.aspx




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 梅雨のない北海道にも、蝦夷梅雨と呼ばれるちょっとした雨が続く期間があります。今年はまだのようですが、もしかしてこのまま本格的な夏に突入するのでしょうか。
 さて、次号のメルマガラインナップは、田野城寿男の「楽譜のいらない音楽授業」、岩崎稔の「大陸人の時間」、大竹正枝の「新・自然真営道」です。
 『メルマガ北海道人』第27号の配信は、7月12日(木)です。
 
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