メルマガ北海道人

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『メルマガ北海道人』第24号 2007.06.21. ―「北海道人」、魚が踊る渓流に木漏れ日―
 北海道では、街から1〜2時間ほど車を走らせると、渓相の良い川に出逢うことができます。川に一歩足を踏み入れると、そこは日常とは別世界。水音、鳥のさえずり、風が木の葉を揺らす音。時々、餌が水面に届くのを待ちきれず、魚がジャンプすることもあります。パラダイスです。桃のない桃源郷です。川面の木漏れ日に気をとられてツルッと転ぶこともありますが、痛くても桃源郷に変わりありません。
 夏至直前、魚も踊る桃源郷から数十キロの地点より3本の強力連載搭載の『メルマガ北海道人』発進! いやいや、配信!

となりの北海道人『私のお父さん』




■もくじ

連載【上林早苗の『上海日記』】

 今回の舞台は1941年〜1945年、太平洋戦争が始まり終結を迎えるまでの上海です。当時17歳のチャンインの母シューリャンさんが戦乱のこの街で目撃したものは?! 日本軍の進駐、ヤミ米を売る農民、殺戮……。「人民だから気にしないで」というシューリャンさんの言葉に揺れる「上海日記」です。

連載【とろんのPAI通信】

 連載第2回目は、6年前にタイのPAIにたどり着いたとろんさんが大洪水に遭った時からの話です。現在、7月7日から始まるななまつりの準備に大忙しのとろんさん。タイ旅行を計画している方は、ぜひこのまつりに加わってみてはいかがでしょう。旅支度の前に、まずはPAIからのメッセージに耳を傾けてください!

連載【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】

 『民間学事典』の執筆に携わった鈴木邦男さん。鈴木さんを事典の編集に誘ったのは、鶴見俊輔さんでした。鶴見さんの話や著作から見えてくる葦津珍彦さんの人物像。左右の思想を超えたところに、二人の深い信頼がありました。鈴木さんがなんと2度もホロリです。

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□連載
【上林早苗の『上海日記』】 第九回

「オールドシャンハイの終焉」

写真
バス停で別れを惜しむ恋人たち(淮海路)
 先日の逃走劇以来、何人かの親しい上海人から「生きているか」「招かざる客はないか」と、冗談とも本気ともつかぬメールが入っている。チャンインはというと派出所で目撃した収監者らの処遇を臨場感たっぷりに再現。身を案じてくれているのか怯えさせたいのか、まったく不明である(彼の派出所見聞録は後日公開)。
 前号飛んでしまった話に戻りたい。
 1941年12月、太平洋戦争がはじまると日本は英米両国と対立し、ついに租界へと進駐した。それまで租界は日本軍の手から唯一逃れていた「孤島」だった。その崩壊はイギリスの100年におよぶ上海支配の終結と、日本による上海全域支配のはじまりを意味していた。
 シューリャンさんは17歳になっていた。中学2年生までは私立学校に通ったが、「医者になるのに算術も英語もいらぬ」という父シャオフォンさんの方針により中退。父を師として古文と中国医学を学び、この頃には診療所の助手となっていた。当時の写真を見た息子チャンインによれば「曹家渡きっての美女」だったとか。父が仕立ててくれた真綿やシルクのチャイナドレスに、冬は毛皮やラシャ地の外套。スラムが立ち並ぶ下町の娘としては目立つ存在だった。
 そんな年頃のシューリャンさんにとって街の変わり様はショックだった。ある時、近所で2人の日本人が何者かに殺害された。日本軍はその報復として近くの貧民区・太平里を封鎖し、数週間にわたって食糧や汚物の搬出入を禁止。区内では飢餓と伝染病によって何人もの死者が出たという。日本の憲兵隊は誰にとっても脅威だった。両脇から突き出される銃剣の下を歩いたと父から聞き、ぞっとしたこともあった。
 そして米不足だ。軍事用と日本国内供給分を確保するため、日本軍は上海への米搬入を禁止した。物資統制である。記録によると、その卸売価格は1941年からの4年間で6300倍まで急騰した。白米はもちろん、アワなどの雑穀さえほとんど手に入らなかったという。
 「我慢できないほど、ごはんが恋しくてねえ」
 シューリャンさんは時おり家を訪ねてきた農民のことを覚えている。彼らはパンパンにふくらんだ綿のチョッキを着ていた。切り裂くとこぼれ出すのは1斗(8キロ弱)ほどの米。曹家渡西側の鉄道沿いに設けられた検問をくぐり抜け、ヤミ米を売りにきた農家の人々だった。シューリャンさんは母チャンランさんが高値でそれを買い取るのをいつも眺めていたという。
 「ある米売りの若い娘はその封鎖線で日本の憲兵に見つかってね。かわいそうに銃剣で刺し殺されました」
 1945年8月、ラジオを聞いていた欧米人が重大ニュースを耳にした。人々は狂ったように叫びだした。
 「日本が降伏したぞ!」
 街は興奮のるつぼと化した。それは歓喜であり、同時に悲しみ、怒りであっただろう。母チャンランさんはこの時、一組の指輪を買っている。抗日戦争を記念した金の指輪である。
 「母はそれを大事にし、時がくると私にくれました」
 現在、それは息子の嫁の胸元で輝いている。
 上海という都市は日本人にとってなじみ深い場所である。この地の日本人居留民は1914年の第一次世界大戦や1937年の第二次上海事変の勃発をきっかけに急増し、太平洋戦争開戦後にはその数なんと10万人に達した。「懐かしのオールドシャンハイ」「魅惑の30年代」「追憶のモダンガール」といったフレーズを日本の雑誌などで見かけるのはそのせいだろう。両親さえ生まれていない時代だというのに、何度も目にするうちつい本当に懐かしくなってしまいそうである。
 しかし、日本人がこの街にもたらした悲劇についてはどうだろう。私を含め、現在の上海在留邦人5万人が当時の上海市民の苦痛をどれだけ知り、それを思い返したことがあっただろうか。
 「あなたは人民だから気にしないで」
 シューリャンさんはそう気づかってくれる。60年以上前のことで一個人が責められることは少ない。過去など知らなくても十分生きていける。でも、それでいいのだろうか。それで本当に「人民同士は仲良し」になれるのだろうか。諸々の疑問をひっさげたまま、「チャンイン研究」の迷走はまだまだ続く。

かんばやし・さなえ…1978年生まれ、奈良出身。京都外国語大学中国語学科卒業。上海在住7年目。中国人の夫と姑との3人暮らし。

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□新連載
【とろんのPAI通信】 第2回

(まつりに向かう日々のなかで)

写真
65年前日本軍がPAIに残した鉄橋
(メモリアルブリッジ)
 6年前の5月にPAIに流れ着き、雨季が始まり、8月3日の満月の夜、ボクは川沿いの竹と葉っぱでできた高床式のバンガローに泊まっていて、雨とともに川の水かさが増してゆくのを、どうなるんだろうと子供のように見つめていた。PAIの町は回りを1000メーター級の山々に囲まれ、幅20メーターくらいの(PAI RIVER)が町の縁を縫うように美しくカーブしながら流れていて、11月から4月までの冬乾季には簡単に歩いてわたれるほどの水量の川だ。
 イギリス人の友人が(町で買い物をしてくる)といって木と竹とで組んだ巾1メーターくらいの竹橋を渡って彼の姿がみえなくなったと思ったら、右方向の上流から巨大な流木が不気味に揺れながら流れてきて、その竹橋にあ!!!っと触れた瞬間、ぱああん!!という橋の悲鳴がボクの眼の奥まで届いてしまった。一瞬にして橋のイノチは消え流され、そして、しばらくして、そのイギリス人の友達が対岸まで戻ってきて、橋の消え去った世界に驚きうろたえ、マンガみたいに飛び上がったりバタバタとこちら側のボクに訴えていた。橋が消えた、とおもったら、幅20メーターの川はその幅の輪郭も消えてゆき、バンガローの床下まで水が流れてきた。そして水位がどんどん上がってきて、ついにベランダ直下までやってきたのだ。
 すでに雨は止み、周りは美しく満月の光に照らされ、全てのバンガローが川のなかに、いや、流れのある湖の中に危うく立ってるような状態で、そんな中、対岸から深夜の避難命令が出され、ボクら旅人は荷物をまとめて、頭に荷物を乗せて胸まで水に浸かりながら、川の強い流れをきり行くように丘のほうへと向かい始めた。一緒に住んでいたメス犬の愛犬(パイ)も、ボクを追うようにベランダから思い切ってジャンプしたけど、あ!!っという間に下流の方に流されてしまった。ボクらは重い荷物のおかげで、ヨタヨタしながらも流されないで丘に向かえた。
 その後もしばらくは、その満月の洪水、生まれて始めての洪水体験にショックを受けて、町中の安全なゲストハウスにじっと潜んでいたけど(やはり川沿いがいい!!)とおもえるように心が回復した頃、今度は、違う川沿いのバンガローに移った。結局バンガロー生活は6ヶ月で、ある日突然、郊外にある一軒家の借家に移り住むハメになり、そこへ3年住み、今のボクがデザインしたムーンビレッジの家には2年半いることになる。
 PAIにやってきて1年ちょっとで、つまり5年前にムーンビレッジという村つくりをナリユキで始める流れになり、4年前に、何故だかトツジョと2007年7月7日から7週間のまつりをやろうと強く想いついてしまい、その告知のために3年前から『なまえのない新聞』(アマナク二刊)というミニコミに(とろんのPAI通信)を連載し始めた。ななまつり、たましいのかくじっけん、いのちのまつり、とまつりの名称も展開してゆく中で、本番まであと2週間に迫る日々。スタッフなし、プログラムなしで49日間ハプニングで展開してゆく。
 ユートピアPAIで自分のSPACEをみつけ出し、
 自分の人間関係をつくりだし、
 自分独自の世界を産みおとし、
 2007年7月7日に向けて、SOUL LOVE FUSION!
 ひとそれぞれの(あなた)が発信源、
 ひとそれぞれの(わたし)が光放つ星、
 ひとそれぞれの(あの人)が命のよりどころ
 どの花みてもキレイだな☆
写真
まつりに向けて準備中のムーンビレッジ
 このメッセージが入った英語と日本語とタイ語のチラシを毎年108枚づつ刷って4年になる。特にミュージシャンやアーティストを呼んでるわけじゃないから、ボクのこの強い(妄想力)がどこまで人に伝わり(形)となりゆく(引力)があるかがボクの最大の(楽しみ)でもあり(不安)でもあり、まつりに向かう中、ボクはすでに(たましいのかくじっけん)されてる実感がしている。
 1号で、65年前に日本軍がPAIまでの山岳道路を作ったと描いたけど、その山岳地帯からおりてPAIの入り口あたりに(メモリアルブリッジ)となづけられてる鉄橋も残していて、まつりの期間中、8月15日の終戦記念日に、町の協力で床も修復してペンキも塗り替え、その鉄橋の上でお祝いのコンサートをすることに決まっている。これもボクの(妄想力)が(形)になりつつあるひとつだ。早くこの自分の重症のビョーキじみた(妄想力)から解放されて、いとしい家族とのんびり暮らしたいな、とおもうこのごろだけど。
とろんより。

とろん…1969年高校卒業直後、フランス郵船に乗ってインドに上陸し地球放浪を始める。帰国後、専門学校、大学、夫などを中退しながらも、旅と文筆とライブ活動を続行し、今に至る。著書に『純粋単細胞的思考』『まるだしのエクスタシー』『とろんのダイジョーぶ経典(スートラ)』(共に、晩聲社刊)があり、この3年間は『とろんのPAI通信』を(なまえのない新聞)に連載中。2001年、50歳のときにタイのPAIに流れ着き、MOON VILLAGEという村つくりを展開しながら、(くるくるPAIバンド)を率いPAIでライブ活動中。

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□連載
【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】 第14回

鈴木邦男→和多田進

「葦津珍彦先生のこと」

 私の宝物として大事にしている本があります。時々、手にとって読みふけっております。鹿野政直、鶴見俊輔、中山茂編の『民間学事典』(三省堂)です。アカデミズムでは取り上げられない「在野」の思想、運動、民俗、趣味、サークル…などについて集大成された事典です。「事項編」「人名編」の二巻があります。各々7600円。二巻で1万5000円です。高い本ですが、それだけの価値はあります。
 実は、私もこの事典づくりに参加しています。「事項編」では「右翼運動・思想」を担当し、「アジア主義」「原理日本社」「農本主義」など、13本書きました。「人名編」では、「北一輝」「大川周明」「里見岸雄」など20本ほど書きました。勿論、葦津珍彦先生のことも書きました。「事典」ですから客観的に、間違いないように気を使いました。ただ、自分の感情も入ります。それはこんな所です。

 <観念的・宗教的天皇論が多いなかで、理論的・政治力学的天皇論を展開。右翼・民族派だけでなく左翼陣営からも評価された>
 <著書『国体問答』『日本の君主制』『永遠の維新者』は民族派運動のバイブルといわれた。野村秋介などの新右翼運動にも大きな影響を与えた>

写真
道14・東京木場公園(写真・WATADA)

 本当は僕が一番影響を受けたのですが、余りに個人的記述になるので、それは書きませんでした。葦津先生を評して長老は、「ナミの右翼」と違うと言ってます。その通りです。「さまざまなヨーロッパ思想を学習しているからなんです。」と言ってます。さすがは長老と思いました。葦津先生の本を読み、話を聞き、私もそのことを痛感しました。実に論理的ですし、時に論争的・挑発的です。和歌はよみません。それだけは物足りないと言っていた右翼の先生方もいましたが、葦津先生は、あくまで論理で勝負したい。情緒的なものに逃げない。そういう覚悟があったのかと思います。
 だから左翼陣営からも評価されたのでしょうし、長老も気になるのでしょう。『思想の科学』にも誘われ原稿を書いてます。当時、左翼側が認めた「唯一の右翼思想家」です。
 この『民間学事典』の編集には、私は鶴見俊輔さんに誘われたのです。編集会議を何度も開き、そのたびに鶴見さんから葦津先生の話を聞きました。お二人は左右の思想界の大御所です。互いに認め合い、敬意を持っていました。鶴見さんの『回想の人びと』(ちくま文庫)には葦津先生のことが書かれてます。晩年、先生は鶴見さんにこう言ったそうです。

 <近いうちに死ぬと思うので、あなたに言っておきたいことがある。敗戦と米軍占領をむかえて、これから自分は天皇の弁護人になろうと思った。弁護人の役割を自分でひきうけたからには、被告について不利なことは言わない。だが、天皇のもつ悪い面を知らないということではない。このことを、あなたに言っておきたかった。あなたとのつきあいのあいだ、私は、あなたの書かれたことを一度も引用したことはない。それは、私に引用されることで、あなたに迷惑をかけることを避けたからだ。この二つのことだ、と言った>

 読んでいて、ホロリとしました。見事な「遺言」です。お互いに信頼し合っていたのです。鶴見さんは、『思想の科学』で天皇論をやるに当たり、積極的支持派との対話も必要だと思い多くの人の本を読みます。しかし、葦津珍彦しかいないと思うのです。情緒に流れず、理論的で、さらに「権力、金力によりかかっていない人」として、葦津を見つけた。と言います。天皇論を書いてもらい、さらに『共同研究 明治維新』を作る時は何度も会合し、合宿までしています。

 <葦津さんはここで、反対側の批判にも耳をかたむける雅量を示し、つつみかくさず自分の意見をのべた。ここでは、天皇制の弁護人としての役割を守るという、公の席上での話し方をとらなかった。彼は、仲間の誰もが信頼できる右翼言論人だった>

 ここでも、ホロリとしました。うらやましい附き合いだったと思います。
 今回は鶴見さんの本の紹介ばかりですみません。ベアテさん、北朝鮮の話、芝田進午さんの話も書きたかったのですが、次回にしましょう。鹿野政直さんの『日本の近代思想』も買って、今読んでます。あっ、この人は『民間学事典』の編集人でもあったのですね。

2007年6月15日

すずき・くにお…1943年福島県生まれ。67年早稲田大学政治経済学部卒業。70年同大学院政治学専攻科中退。70―73年サンケイ新聞社勤務。72年「一水会」設立、代表。99年同顧問。著書に『新右翼―民族派の歴史と現在』(彩流社)、『夕刻のコペルニクス』(扶桑社)、『言論の覚悟』(創出版)、『公安警察の手口』(筑摩書房)、『愛国者は信用できるか』(講談社)など。


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■インフォメーション

北海道人のHPが更新されました。

連載【となりの北海道人「私のお父さん」 第19回】
 北海道出身または現在北海道にお住まいの4人の方に、ご自分のお父さんについてお話しいただくコーナーです。今回もそれぞれのエピソードから4人のお父さんの横顔がちらりと見え隠れ……。

http://www.hokkaido-jin.jp/issue/dad/101.php?no=019




■次号予告
 2007年もまもなく半年が過ぎようとしています。まだ半年、もう半年……。みなさんは、「まだ派」ですか「もう派」ですか。中には卓越した境地の「半年然り・半年yes!派」の方もいらっしゃると思いますが、いかがでしょう。
 次号のメルマガラインナップは、田野城寿男の「楽譜のいらない音楽授業」、岩崎稔の「大陸人の時間」、大竹正枝の「新・自然真営道」です。
 『メルマガ北海道人』第25号は、6月28日(木)に配信します!
 お楽しみに!!

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