メルマガ北海道人

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『メルマガ北海道人』第22号 2007.06.07. ―「北海道人」、カッコーが鳴き始める夜明けに―
 カッコーの鳴き声が朝もやの山から届きました。初夏の知らせです。でも鳴いている鳥はカッコーだけではありません。
 太陽が昇る少し前、あらゆる鳥たちが大合唱しているのです。「ジジジ、ピョロピョロ、チュンチュン、カァ、チュン、ホッホー、ホケキョ、ホーホケッ、ピョロピョロ、ギャギャッ、ピロピロ……」。
 この鳴き声が意味するところはなんでしょう。「朝だ、そうだ、朝だ、いい感じ、そうだ、朝だ、いいね、晴れだ、そうだ、晴れだ、いいね……」。そんな風に聴こえましたが、ホントのところはわかりません。
 6月7日、札幌の日の出時刻は午前3時56分です。鳥たちの大合唱、ちょっと早起きして聴いてみませんか。
 『メルマガ北海道人』第22号は、夜明けとは関係なく、カラスがねぐらに帰る夕暮れにお届けします。

となりの北海道人『私のお父さん』




■もくじ

連載【上林早苗の『上海日記』】

 今回こそはチャンイン登場、と思いきやドラマの主役は上林さん自身でした。ある場面を写真に撮ったことから、上林さんがトラブルに巻き込まれてしまいます。都市開発にゆれる現在の上海の、交差点で路地裏でいったい何が!

新連載【とろんのPAI通信】

 今号から新連載が始まります。タイの山奥、PAIに住む謎の人物とろんさんがその暮らしぶりを皆さんに伝えます。早朝の豆乳屋さんで揚げパンを食べながら書かれた1回目のPAI通信。そのリズムや匂い、タイの気が伝わってきます。

連載【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】

 メルマガ読者が心配していた、諸々のやりとりもひと段落です。今回は、かねてから話題に上っていた葦津珍彦さんについて、また、鈴木邦男さんが説明を求めていた「ベアトリーチェ」や、「核時代」の表記について編集長・和多田進が答えます。

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□連載
【上林早苗の『上海日記』】 第8回

「主婦の逃走」

写真
 本来なら今回は戦乱まっただなかにあるシャオフォン一家のその後である。ところが数日前、「これはぜひ日記に」と思う出来事に遭遇したため、急きょこちらを優先することにしたい。
 夜8時過ぎ、スーパーで食料品を買いこんだ私は家路を急いでいた。交差点の真ん中に人だかりができている。何事だろう。人垣をかきわけると、老人を含む5人が一列に横たわっていた。事故ではない。聞けば前日、この一家の長がアパートの3階から落下し、重体だという。原因は自宅の立ち退き問題だ。つまり、この騒動は市の担当機関に向けた一家総出の抗議らしかった。
 「どけどけ。記者に写真を撮らせろ」
 近くにいた男性がそう言いだしたのは、もう50人以上が現場を取り囲んでいた頃である。信じられなかった。彼はコンパクトカメラを手にする私を記者と勘違いしているのだ。ふいに私は「冤罪おばあちゃん」の一件を思い出した。
 4ヵ月ほど前のことだ。上海人民政府の人民来訪接待室前に「冤罪」と書かれた布をまとう一人の年配女性がいた。立ち退き補償交渉のもつれが原因で、夫の同僚が不慮の死を遂げたらしい。近年、上海では地下鉄や万博のために都市開発が進んでいるが、裏ではこの種のトラブルが後を絶たないのだ。その時、私は写真を撮った。すると近くにいた人があわてて忠告してくれたのである。
 「カメラをしまえ。没収されるぞ」
 理由は明白だ。写真が公になれば、トラブルが表面化する。すると同じ問題を抱える人が続々と立ち上がる。つまり政府にとって好ましくない「社会秩序の乱れ」が起きるのだ。
 「記者が来たぞ」
 勘違い男性につられて声が上がりだした。まずい。そう思った時、目の前に2人の警察官がいた。先ほどから交通整理や一家の説得に当たっていた人たちだ。
 「何を撮っている」
 「身分証!」
 やましいところは毛ほどもない。通りすがりのヤジ馬ですと答えればいいのである。しかし、私は日本人だ。下手に「身の潔白」を主張してそのことがわかれば、よけいに話が複雑にならないだろうか。考えてみると、組織に属し、検閲が待ち受ける中国人記者よりもどこの馬の骨とも知れぬフーテン外国人のほうがよほど胡散臭そうである。質問に答えられずにいると、一人の男性が言った。
 「そういうあんたは誰なんです?」
 警察官は目を見開いた。言葉が出ないらしく、「見てわからないのか」とばかりにその制服をわしづかみにしている。人々はいっせいに私の耳元でささやいた。
 「逃げろ」
 「写真を消せ」
 「携帯だけは取られちゃダメ」
 「なんならおばちゃん預かってあげる」
 警察官は私の首にぶらさがったカメラをつかむと、その場を去ろうとした。首ひも一本で連行される私は犬状態だ。人々は激昂した。私の腕とリュックにしがみつき、そうはさせまいと踏んばる。窒息寸前だ。警察官は大声で繰り返した。
 「職場はどこだ。何をしている」
 今度は即答した。
 「職はありません。専業主婦です」
 群衆から「そうだ」「主婦に何の罪があるんだ」とヤジが飛ぶ。警察官は言った。
 「主婦はこういった写真を撮ってはいけない。派出所まで来てもらおう」
 笑いと怒声で場は騒然となった。
 「おい、主婦は写真撮るなとさ」
 「どういう理屈だ?」
 「デタラメ言ってんじゃないよ!」
 もはやこれまで、と観念したその時である。運動着姿の中年女性が駆けてきたかと思うと、「××ちゃん!」と叫んで私に抱きついた。もちろん知らない人である。彼女は肩越しにささやいた。
写真
 「そこの路地に入るわよ。うちの台所を抜けて向こうの通りに出なさい」
私たちは歩き出した。振りかえる勇気などもうない。路地へ折れるとすぐ彼女は別方向へと消え、私は共同炊事場に入った。長い廊下を抜け、薄暗い路地裏に出る。後ろを見た。誰もいない。なぜか買い物袋をのぞく。ぺしゃんこのデニッシュパン、よじれたバナナ、生温かい牛乳。力が抜け、笑いがこみあげた。もう大丈夫だ……。
 見ず知らずのまぬけな人間に手をさしのべてくれた人々に心からお礼を言いたい。それは私が反応することさえやっとの場面での機転と勇気、結束力だった。そして思うのである。彼らが見せたこの力の正体はいったい何だったろうか、と。路地へと向かう途中、「記者じゃない。捕まる理由も逃げる理由もない」と訴える私に、運動着のおばさんはこう言った。
 「それでも逃げなさい。みんなのために」

かんばやし・さなえ…1978年生まれ、奈良出身。京都外国語大学中国語学科卒業。上海在住7年目。中国人の夫と姑との3人暮らし。

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□新連載
【とろんのPAI通信】 第1回

「早朝の豆乳屋さんから」

写真
地元警察署長の帽子をかぶりご機嫌の著者とろん
 タイの北部山岳の町PAIに住んで6年経つけど、日本に住む友達には、桃源郷PAI、オッパイのパイ等といっては、遊びに来るように誘惑している。ボクの場合、日本から飛行機でバンコクに降りたら、2−3日バンコクに泊まってアジアを感じ、それから、チェンマイ行きの夜行列車に乗るのが常だ。夕方発の夜行列車に乗りしばらくすると、左側の車窓からオレンジ色の巨大な太陽が沈み行くのが見え、そして朝チェンマイにつくころ夜が明け、右側の窓からドラマティックに日が昇ってくる。そして、古都チェンマイに何日か滞在して、それから一気にPAIまでバスで4時間。チェンマイはバンコクから真北に向かって700キロくらいか。ラオスやビルマの国境をめざしての北上。そのタイ北部の古都からさらに北上して、マーメライという町から左折して山間部にはいっていく。
 このマーメライという町からPAIまでの山岳道路は、65年前、ビルマ侵攻の日本軍の兵隊さんたちが地元の人たちと一緒に開拓して作った道で、現在では道幅も広くて舗装されているけど、それでも危ないくらいなカーブの連続で、車に弱い人などスグ酔ってしまうだろう。この山岳道路を作るのにたくさんの人たちが犠牲になって(白骨街道)と呼ばれているくらいだ。そういう歴史の事実を知ってバスにゆられてると、また違った想いでPAIにはいれるのかもしれないな。
 いま、早朝の豆乳屋さんで描いている。PAIの町の朝の市場は早朝2時から始まり、この豆乳屋さんは4時からあけていて、ボクの日常生活は5時に起きて、まずは市場で買い物をし、この豆乳屋さんでコーヒーを飲み、豆乳と一緒にパーソンコー(シンプルな揚げパン)を食べ、お茶をすすりながら2時間の(ひとりの時間)を楽しむことから一日がはじまりゆく。豆乳が大型コップ一杯5バーツ(1バーツは3円)、コーヒーは10バーツ、パーソンコーひとつが1バーツで、お茶は飲み放題!!!今日は、いつもより30分早く目が覚め、この豆乳屋さんに急いだ。なにしろ、『メルマガ北海道人』への初執筆の日だから、ボクの(執筆エクスタシー)に火がついたのかな。
 2時間の(ひとりの時間)をこころゆくまで楽しんだ後は、26歳年下の超美人、愛妻(はるか)と(太一)という産まれて10ヶ月の赤ちゃんが家で待っている。ロフト付きで広いベランダがあり、2メーターの高床式の木と竹と葉っぱでできたボクがデザインした我が家をすみからすみまで掃除してゆく中、ボクの(ひとりの時間)は消え(3人の時間)に流れてゆく。井戸での水汲み、皿洗い、小川でのオシメなどの洗濯をボクがやったら子守を交代し、愛妻はるかは、ヤギの乳搾り、ごはんつくりをはじめてゆく。
 5年前から成り行きでここPAIに(ムーンビレッジ)という村つくりを始めて、今、赤ちゃんを含めて9人の村人がいて、毎年みんなでお米や大豆を作ったり、各自で畑をやったりしている。だから(3人の時間)も1日のうちのある時点から消え去ってゆく。このごろは、日本人の旅人や噂を聞きつけてやってくるタイ人や西洋人も多いから、一日の流れが、成り行きの渦でなりゆいてゆく。まあ、ボクの(執筆エクスタシー)に並ぶこころトキメク(なりゆきエクスタシー)だな。
写真
PAIを見下ろす山の上のお寺ワットメーエンにて
愛妻はるか&太一(ムーンビレッジの家で生まれて、現在10ヶ月)
 そんな成り行きの渦の中、今年2007年、7月7日七夕の日にボクと愛妻はるかの結婚式をすることになっている。すでにインドに2ヶ月のハネムーンもいって、10ヶ月の赤ちゃんもいて、出逢って3年近くになり、いまだに相手の両親から反対されているけど、金の指輪も交換して真面目な結婚式をするのだ。そして、その七夕のボクたちの結婚式から7週間、49日間のアートの祭りが始まる。たましいのかくじっけん、いのちのまつり、ななまつり、などと呼ばれているこの前代未聞のアートなまつりに未だ見ぬアナタを誘惑するには、絶妙なタイミングでの執筆開始ですね。桃源郷PAI、オッパイのパイに是非とも縁を感じたアナタ、やってきてくださいね。七夕の結婚式にも、もちろん、ウエルカムですよ。
 さて、きょうは、どんなふうに一日が展開してゆくのだろう。わくわくドキドキの一日が始まる。
  とろんより、PAIの気、おくってみるね。

とろん…1969年高校卒業直後、フランス郵船に乗ってインドに上陸し地球放浪を始める。帰国後、専門学校、大学、夫などを中退しながらも、旅と文筆とライブ活動を続行し、今に至る。著書に『純粋単細胞的思考』『まるだしのエクスタシー』『とろんのダイジョーぶ経典(スートラ)』(共に、晩聲社刊)があり、この3年間は『とろんのPAI通信』を(なまえのない新聞)に連載中。2001年、50歳のときにタイのPAIに流れ着き、MOON VILLAGEという村つくりを展開しながら、(くるくるPAIバンド)を率いPAIでライブ活動中。

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□連載
【危機の時代に―鈴木邦男・和多田進 10年目の往復書簡】第13回

和多田進→鈴木邦男

「『閑話休題』的に……」

鈴木邦男さま

前略

 ニューヨークでベアテ・シロタ・ゴードンさんに会われたそうですね。彼女のお父さんはたしかロシアのピアニストで、お父さんが東京芸術大学(当時は東京音楽学校でしたでしょうか)で教えることになったので彼女も来日したのだったと思います。10代半ばには一人でアメリカに留学し、『タイム』誌で働いていた1945年、日本の敗戦にともなってGHQ民生局員のひとりとして日本にやってきて日本国憲法草案の作成に加わったのでしたね。特に「日本国憲法に男女平等の条項を書いた人」として10年くらい前に日本でも“有名”になり、『一九四五年のクリスマス』という「自伝」も公刊されました。これは私も走り読みした記憶があります。
 この春には鈴木さんが北朝鮮を訪問される予定だったという話も聞きました。情報源は鈴木さんを「北」に誘った方です。私もあの国のマスゲームを観たいと思っていましたが、あまりにも忙しくなりすぎて行けませんでした。そんな鈴木さんの近況の断片を知って、なんとなくうらやましい気持ちになったりしています。

写真
道13・京都蹴上界隈(写真・WATADA)

 と、まあ、「時候の挨拶」は挨拶として、葦津珍彦の話です。葦津は「近代民主主義者は、神による人間の平等権を信ずるとともに、人間が宿罪の子であり、犯罪からまぬがれない本質を有する、とのキリスト教的人間観を信じた」(『近代民主主義の終末』28ページ)ことから間違いがはじまったのだと言います。私も、その通りに違いないと概ね葦津の論に賛同しています。私が葦津という人を「ナミの右翼」と違うと思うのは、この論点に至るためにさまざまなヨーロッパ思想を学習しているからなんです。「ナミの右翼」なんて書きましたが、何が「ナミ」でどんな右翼が「ナミ」でないのか、確とした見解が私にあるわけじゃありません。言葉での勢いでそう書きたいだけです。とにかく葦津はヨーロッパの思想をよく学習していると感じます。
 しかし、私が賛同できるその意見の後の葦津の結論には賛同しかねるのです。なにしろ、彼は孟子に行っちゃうんですから。この葦津によるヨーロッパ思想と孟子の接続関連については以後もう少し詳しく葦津の論を見ることにさせてください。また、ここまでで鈴木さんはどう考えていられるのか、ご意見も是非お聞かせ下さい。
 紙数が尽きますので、だいぶ以前に鈴木さんから質問のあった「ベアトリーチェ」と「核時代」について、遅ればせながら簡単に答えておくことにいたします。
 あのときベアトリーチェと書いたのにはたいした深い意味はありませんでした。彼女、ダンテの永遠の恋人ですよね。ダンテの処女作『新生』は彼女のことを書いた本で、ダンテは彼女を熱愛し、心の中で生涯彼女を追い求めつづけたけれども結局はプラトニックに終わったんです、愛は。まあ、『無法松の一生』の松五郎にとっての「奥さん」、吉岡大尉夫人と書いてもよかったんですけどね。
 「核時代」については鹿野政直先生の書かれた『日本の近代思想』(岩波新書)を引用させていただくことで答えとさせて下さい。
 「芝田進午は、日本でヒロシマ紀元を提唱してきた哲学者である。」「哲学者としての芝田は、『核時代の新しい哲学』の樹立をめざした。『それは一党、一派、一宗教、一世代、一階級、一民族の哲学ではなく、人類の哲学でなければならない』」と考えていた。……そんな「芝田進午の教えを受けた和多田進は、出版社である晩聲社の代表である。刊行する書物に『核時代』という年の表記を入れ始めた。第一号は一九八七年末に出版の小関智弘『鉄を読む』であった。奥付には『核時代四二年(一九八七年)一二月二五日初版第一刷』と入れた。『昭和』を使わず『核時代』としたことについて、こう語っている」「『昭和』の非科学、非論理に比較すれば、『西暦』のほうがよっぽどマシ――という考えによります(中略)。芝田氏は最初、『ヒロシマ、ナガサキ○○年』というふうに記述されておりましたが、近年は『核時代』紀元を使用するというわけであります。
 この話を紹介した『琉球新報』一九八八年一月二十三日朝刊のコラム『アシャギ』は、『小さな出版社の大きな一石というべきであろう』と結んでいる」
 そういうわけで、師・芝田進午氏亡き後も私はほそぼそとコトあるごとに「核時代」を使っているわけです。なによりも、すべての生物、私たち人間にとっても生命が最も大切であることは言うまでもありません。それが現在、人間の発明した「核」によって絶滅の危機にさらされているのです。この状況の下で私たちは生き、暮らしを立て、メディアの仕事をしているわけです。そのことを忘れないために、私は「核時代」紀元を死ぬまで使い続けるつもりでいるというわけなんです。

草々

2007年(核時代62年)6月4日
和多田進拝


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■インフォメーション

北海道人のHPが更新されました。

連載【となりの北海道人「私のお父さん」 第18回】
 「4人のお父様方、ありがとうございます」。今回も息子さんや娘さんたちによって、お父様方のことが秘密のうちに語られました。いろいろあります。四人四色。今までに登場してくださったお父さんは今回で112人にのぼります。百十二人百十二色。お父さんがいる限りこの企画に終わりはありません!

http://www.hokkaido-jin.jp/issue/dad/101.php?no=018




■次号予告

 次号のメルマガが配信される頃には、もっと「モーモー」していることでしょう。北海道だからといって「モーモー」=「牛」じゃありません。もう少し正確に表現すると「モォモォ」です。意味するところはつまり気温が上がって、身体の表面温度が上昇し、厚手のジーンズなんかをはいていると布と身体の間に熱がこもって、「モォモォ」するということです。ふーっ。
 そんな「モーモー」な北海道からは田野城教授の『楽譜のいらない音楽授業』、「モウショ」している北京からは岩崎稔さんの『大陸人の時間』、そしてなんだか涼しげなエルムの杜の木陰からは、大竹正枝さんの『新・自然真栄道』、好評連載3本をお届けします。
 次号『メルマガ北海道人』第23号は6月14日(木)配信です!

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