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公園すべてが、ひとつの彫刻 札幌市モエレ沼公園

モエレ沼公園1/2000の模型▲モエレ沼公園1/2000の模型。制作はイサム・ノグチさん(写真提供:モエレ沼公園)

■1/2000の模型

 モエレ沼を初めて訪れてから何度かの打ち合わせをへて、イサムさんは正式に公園の設計を引き受けた。ニューヨークのアトリエにモエレ沼の図面を持ち帰り、本格的にプランを練った。そこには、彼が若くして計画し、実行できずにいたプレイマウンテンや、これまでつくってきたさまざまな遊具などが並んでいた。その後何度も協議をかさね、設計図を引き直し、立体の模型をおこして計画が進められていった。

 そして11月16日、イサムさんの84歳の誕生日の前日、山本さんをはじめアーキテクトファイブのメンバーが集まった最後の打合わせで、モエレ沼公園全体の1/2000の模型が完成した。イサムさんは日ごろから、「私は体を小さくして、このなかに入っていくことが出来ます」と言っていたが、模型はまさに彼がそのなかで走り、遊んで作った空間だった。
 そしてこの日、イサムさんは集まった皆に
 「これで私がいなくなっても、あなた方でできますよ」
 と言った。その後2カ月足らず、12月30日にイサムさんは肺炎をこじらせてニューヨークで息をひきとった。彼がいなくなってしまうとは、だれも思っていなかった。もちろん彼自身も考えていなかっただろう。でも心のどこかで、公園の完成を見届けることはできないかもしれないと、感じていたのかもしれない。
 この模型をもとに、いままでイサムさんと仕事をしてきた建築家、彫刻家、造園家など各国から多くの協力者が集まって、実際の細かい設計と工事が行われた。
 「迷ったときは、皆がいつもこの模型に戻って考えました。そして、イサムさんだったら何と言うだろうと考えて」
 山本さんは17年前からのことを、つい昨日のことのように話す。

ブラック・スライド・マントラ

▲大通公園のブラック・スライド・マントラ

ブラック・スライド・マントラ
1992年5月の除幕式

▲1992年5月の除幕式。白い覆いがかけられ、どんな彫刻が姿を現すのか、参列者一同注目のひととき。

初めてお披露目されたマントラの後ろで、順番を待つ子どもたち

▲初めてお披露目されたマントラの後ろで、順番を待つ子どもたち。

■もうひとつのシンボル――「ブラック・スライド・マントラ」

 モエレ沼とは別に、札幌にはいくつかイサムさんの彫刻がある。そのひとつが、街の中心部、大通公園8丁目と9丁目の真ん中にドンと据えられた黒御影石のすべり台、「ブラック・スライド・マントラ」だ。
 後ろ側の階段から登ってクルリとすべり降りるのだが、先が見えないのでドキドキする。すべり台の部分は、いつも子どもたちのお尻で磨かれて美しく光っている。

 この彫刻は、モエレ沼の設計が決まるとともに「札幌の子どもたちへのプレゼント」として、イサムさんからの提案がきっかけで生まれた。二度めに札幌を訪れたとき、大通公園で「ここになら置いてもいいね」と言ったのが、現在置かれている場所だ。
 「最初はどうして急に大通に彫刻を置くことになったのか、よく分かりませんでした。でもいま考えると、あれはイサムさんの布石だったんだと思います。この彫刻に親しんでもらって、モエレにも来てもらいたいと話していましたから」
 山本さんはこう推測する。
 モエレ沼公園の工事には、10、20年という長い歳月がかかる。それに、公園の場所は札幌の都心から8キロ近く離れていて、ふだんは市民が行くことも少ない。そのため、公園が完成するより前にまちの中心部に彫刻を置くことで、多くの人に楽しんでもらい、モエレ沼の完成を楽しみに待っていてもらおう。そして完成したら、たくさんの人にモエレに来てほしい。そう考えたのではないだろうか。

 イサムさんはその年にブラック・スライド・マントラの模型をつくり、アフリカ産の黒花こう岩を用意した。そして、いつものように香川県牟礼のアトリエで、ここから送り出した多くの作品と同じく、協力者の和泉正敏さんに指示をして制作をはじめた。
 イサムさん亡き後は和泉さんに引き継がれ、彫刻が完成したのはそれから4年後の1992年。盛大な除幕式が行われ、イサムさんの遺作として多くの報道が行われた。
 それ以上に、たくさんの子どもたちが彫刻に登り、すべり降り、イサムさんの世界を体感した。こうして、ブラック・スライド・マントラはモエレ沼公園よりひと足先に、多くの人に愛されるシンボルとなった。

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