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特集 北国ラーメンものがたり 北海道四大ラーメンを訪ねる 取材・文/編集部
その3 戦後屋台で復活するラーメン
昔の屋台で使われていたチャルメラ
▲昔の屋台で使われていたチャルメラ。穴がならんで開いていて、リコーダーのようにして吹く。(写真提供:新横浜ラーメン博物館)

チャルメラの音色
 中国料理店や喫茶店で親しまれた初期の札幌ラーメンは、第二次世界大戦によって大きく寸断されてしまう。その後、第三の舞台として盛り上がりを見せるのは、昭和20年代に生まれた「ラーメン屋台」である。
 でもその前に、昭和一けたのころから、札幌の夜空にチャルメラを響かせていた屋台がいくつかある。現在、東急デパート内にあるラーメン店「いちまる」は、前身が昭和5(1930)年ころに始まった、札幌でもっとも古い屋台のひとつだ。

 「いちまる」の初代は、福島県から札幌に来た渡辺勝井さん、2代目が勝井さんの息子で10人きょうだいの長男・哲夫さん。哲夫さんが体調をくずしてから屋台はやめ、きょうだいの下から2番目の巖さんがあとを継ぎ、店を構えて現在に至る。
 巌さんは昭和18年生まれなので、戦前の屋台を直接は見ていない。しかし、くりかえし聞いた父や兄の昔話をもとに、当時のようすを教えてくれた。



昭和5年ころ、札幌でラーメン屋台を始めた「いちまる」の初代・渡辺勝井氏
▲昭和5年ころ、札幌でラーメン屋台を始めた「いちまる」の初代・渡辺勝井氏。昭和40年代の肖像。(写真提供:渡辺巖さん)
▼現在ののれんの横に、昭和20年ころの製麺工場の看板がある。当時は屋台を営むほか、市内のラーメン店や食堂に麺を卸していた。
現在ののれんの横に、昭和20年ころの製麺工場の看板がある

 「狸小路の2、3丁目に屋台を出すと、丸井や金市館の番頭さんや従業員の人たちがたくさん来ました。狸小路のほか、道庁のまえから国鉄の苗穂駅の近くまで、お袋とふたりでずっと屋台を引いて歩いたそうです。夜8時に店開きして、夜中の1時2時に麺が売りきれるまで、暖房もない寒いなか、よくがんばっていたと思います」
 勝井さんは、そのころ札幌でラーメン屋台を取り仕切っていた阿部吉太郎という人の下で屋台を引き始めた。最初の名前は「まるいち」といって、昭和9年ころ独立して「いちまる」と名乗るようになる。

 スープのダシは豚骨だけで、数時間かけて血抜きしたあと、サラシの袋に入れてゆっくり煮出す。骨を袋に入れるのは、すくいきれない細かいアクを出さないためで、こうすると美しく澄んだスープができる。この方法はいまも巌さんが守り続けている。
 使う麺は自家製の麺。「麺に最適」といわれた中国の黄河流域でとれた小麦粉を仕入れ、昼間のうちに自宅で製麺し、夜の開店にそなえる。「最初のころは、1日に20食も売れれば終りだったそうです」と巌さん。物心ついてからは、毎日、父母の作るラーメンを食べて育った。

 当時の屋台はみなチャルメラを吹いていて、常連客はその音色によって、どの屋台か区別していたという。いつも気に入りの屋台が来ると、家から鍋を持って買いに来る人もいた。
 「チャルメラの吹き口は、ワラが1本差し込んであって、微妙な音色が出るんです。本体は木製なので、長く使っていると割れてしまうんです。うちで使っていたのも今はひとつも残っていません」
 チャルメラと同じく、勝井さんの屋台時代の写真も残念ながら1枚もない。


「いちまる」住所:札幌市中央区北4西2 東急デパート10階 3代目の渡辺巖さん(写真右)と4代目となる息子の邦一さん 最近の人気メニューのひとつはネギラーメン(写真はしょうゆ味)。麺は道内産小麦を100%使用
▲「いちまる」住所:札幌市中央区北4西2 東急デパート10階  ▲3代目の渡辺巖さん(写真右)と4代目となる息子の邦一さん。 ▲最近の人気メニューのひとつはネギラーメン(写真はしょうゆ味)。麺は道内産小麦を100%使用。
 
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