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特集 流氷の海へ

オホーツク紀行――流氷と氷民への旅

 
取材・文/編集部写真/酒井広司、編集部
 
モヨロ貝塚を発掘する米村喜男衛氏。(写真提供:米村衛さん)
 
米村を訪ねたときに、金田一が読んだ歌が刻まれた碑。
 
「モヨロ貝塚館」はJR網走駅から徒歩20分。網走川河口に広がるモヨロ貝塚に隣接する。(写真提供:米村衛さん)
 
◆網走で流氷とオホーツク人に出会う

 網走で、流氷と出会った。
 網走の岬の突端に向かって歩くと、目の前はオホーツクの海だった。
 晴れ渡る空にもかかわらず、地吹雪があたりを包み、風が体温を急激に奪っていく。その一瞬の晴れ間、空と海を横一線に切り裂く白い帯が見えた。
 流氷である――。
 その輝く純白と、深い灰色がかった青のコントラストは、次の瞬間、地吹雪のなかに姿を消した。
 その後、海を埋めつくす氷原の光景にも、海岸にごろごろ転がる背丈をはるかに越える氷塊にも出会った。しかし、あの水平線上の流氷の印象は深く、耳元で誰かが、
「流氷が来たどー!」
と叫んでいるような、まるで映画のワンシーンのような記憶となっている。

モヨロ貝塚最上層で発掘された人骨。仰向けに埋葬されている。 日本の古墳時代から平安時代にあたる5世紀から12世紀にかけて、この流氷とともに、北海道沿岸に渡来し、独自の文化を育んだオホーツク人の存在が明らかになったのは、大正2年のことだった。
 理髪業のかたわら考古学を志していた米村喜男衛は、網走川の河口、5メートルほどの標高の海岸砂丘に、古代人の遺跡である「モヨロ貝塚」を発見。その貝塚から見つかった土器などの遺物や人骨は、それまでのどの遺跡の出土品とも異なり、後にオホーツク人、オホーツク文化と名付けられることになる。

 オホーツク文化のルーツは、アムール川下流域にあるとされ、5世紀に北海道に上陸し、オホーツク海沿岸に定着。日本海側では北海道南部の奥尻島にまで達した。
 大きな五角形、六角形の竪穴住居に数家族が住み、漁労や流氷とともにやってくる海獣を獲るなどして暮らし、熊などの動物信仰をもつなど、北方民族の特徴をもつ文化だった。
 そのころ北海道では、本州の影響を受けた「擦文文化」が広がっており、やがてオホーツク文化は、10世紀ころには、擦文文化と融合し姿を消す。

 そのモヨロ貝塚は、網走駅のすぐ近くにある。
 貝塚を囲むフェンスの脇には、
 「於不津くの もよろのうらの 夕凪に いにしよ志のび 君と立つかな」
 という、金田一京助の歌碑が立っている。昭和20年、金田一が米村を訪ね、モヨロ貝塚に立ったときに詠んだ歌だという。
 遺跡のすぐ近くにある「モヨロ貝塚館」には、少し古びてはいるが、当時の遺跡の雰囲気がわかる展示がされている。このモヨロ貝塚は、周辺整備が予定されており、オホーツク文化発見の地にふさわしい展示・見学ゾーンに生まれ変わるそうだ。

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