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特集 流氷の海へ

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 網走沖にほの白く見えた流氷は、接岸もせずに知床へ向かって去った。それならと、知床に向かって九十分、車を走らせウトロのプユニ岬の高台に先回りした。いくら待っても、付近にエゾシカの群は現れるが、沖合は低くなった西日がまぶしく照り映えて、光とも流氷とも定かでなかった。忍者のような流氷に今年もやられたと思いながらも、流氷という自然に翻弄されるていることに、気持ちがはずんでくるのだった。
 帰途、知布泊(ちっぷどまり)の高台から海をのぞき込んで、この辺の氷原で起きたという流氷遭難事件を思い起こした。H校長はウトロの学校に赴任して初めての冬を迎えた。斜里の町で会議が開かれ、往きは崖上の雪道を歩いたが、帰途には海岸に下りて流氷原を歩くことにした。氷原は馬そりまでも通行するほど利用されていた。
 前方に馬橇が湾を横切って行くので、その方向に五、六百メートル進むと、突然ドーンと重いひびきが伝わってきた。右手の陸を見ると真っ白だった氷原に黒い線が見える。走り寄ってみると、氷原が裂けて海面が黒い線になっている。
 これでは沖合に流されると、裂け目の狭い部分を陸がわの氷に飛び移ろうとしたとき、足を滑らせて海中へ落ちてしまった。この時、背負っていたリュックには奥さんから頼まれて、町で買いこんできた毛糸がつまっていた。毛糸は当時貴重な品物であった。毛糸の浮き袋で身体は沈まない。ストックをついてようやく岸に這い上がって、振り返ると氷原は五、六十メートルも沖に出ていたという。
氷海の民話を伝えたい  文・写真 菊地 慶一 青空に突き立つ氷盤
沿岸に南下しつつある氷盤の紋様
海岸近くにのし上がって来る氷塊
知床連峰からの日の出、前方は流氷山脈

菊地慶一(きくち・けいいち)

1932年旭川市生まれ、1969年より網走市在住。1973年、流氷出版物として最初とされた『白いオホーツク――流氷の海の記録』を刊行。以来、流氷をテーマに書き続けるとともに、児童文学、ノンフィクション、地方史など多くの作品を出版する。流氷関係の著書は『流氷の世界』『オホーツク流氷物語』『流氷くる!』『オホーツク氷岬紀行』など。小学校国語教科書に『流氷の世界』が採用されている。網走歴史の会代表、日本児童文学者協会会員。

「菊地慶一のオホーツク流氷通信」
http://www6.ocn.ne.jp/ ̄apice/

最新刊『流氷――白いオホーツクからの伝言』(2004年1月/響文社発行)

 この話は何十年も前、当のHさんから聞いた話である。その時聞き漏らしたが、同じ日時に遭難した人がいるという噂が伝えられていた。それが最近明らかになった。
 Kさんは早朝に斜里を発ち、山道と氷原を交互に歩いていた。前を行く馬そりが陸に上がったので、そろそろ陸に上がろうかという時、氷原が割れて沖に流れ出した。大きな氷盤に乗って流され、沖でウトロ方面から流されてきた男と合流したという。やがてずぶぬれの男は倒れ眠り始めた。Kさんは怒鳴り、揺すり、殴りつけ、自分は氷上を走り体操をして寒さを防いだ。夜の闇が深くなった時、神風が吹いた。風が変わって氷盤は陸に向かい始めたのだ。やがて陸の漁師たちが焚くかがり火が見え、番屋に救出され一命を拾ったのだ。凍傷を負った男は凍傷で両足を切断したあとに亡くなったいう。今は真偽を確かめようもないが、自然の変貌が大きい北緯四十四度のオホーツク海沿岸には、このような流氷民話が生まれるのは当然である。
 年末の喪中ハガキに、見知らぬ名の差出人のものがあった。母が亡くなりましたというもので、Yさんが昨秋亡くなったという。Yさんは女学生の時、オホーツク海を流氷に乗って流される学生を発見して通報した。父親が救助の船を出し青年は難を逃れたのだが、後年見合い話が出た折、その相手が偶然にも救助した青年であったという。ふしぎな縁で結ばれた夫婦は五十年も共に暮らした。このことは先年Yさんが手記にして届けてくれたのであった。
 物語に負けぬほどに奇なる話が、流氷の海には残されている。人々の喜びと悲しみを包みこんだ現代の民話。これもオホーツクに伝え残したい一つである。

 

 

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