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拾遺 ― サムライの末裔/子母澤寛のふるさと・厚田村を訪ねて
北に生まれた新選組の語り部

 『燃えよ剣』で新選組・土方歳三の生涯を描いた司馬遼太郎は、ライフワークとなった『街道をゆく』の取材で北海道の厚田村を訪ねている。なぜ厚田村だったのか。
 司馬は、こう書く。
 「(昭和36、37年)当時、私は新選組のことを調べていた。ところが調べるほどに子母沢(原文ママ)さんの『新選組始末記』を経ねばどうにもならないことがわかり、資料として使わして頂くことになるかもしれないということで、おゆるしを得に行った」。(『街道をゆく15 北海道の諸道』)
 厚田村は、『新選組始末記』など一連の著作を世に送った作家・子母澤寛のふるさとだった。

 子母澤寛、本名梅谷松太郎は、明治25(1892)年、厚田村に生まれた。
 北海道に少年時代を過ごし、明治大学に進学。のちに読売新聞社、東京日日新聞社でジャーナリストとして活躍する。その一方処女作となった『新選組始末記』など新選組三部作とよばれる著作や、大衆小説で人気を博し、作家としての地位を不動のものとする。
 その小説の原点に常にありつづけたのが、厚田村と、そこで子母澤寛を育てた祖父・梅谷十次郎だった。

子母澤 寛(1892-1968)(写真提供/厚田村)
自筆の書と硯
愛用の万年筆(厚田村郷土資料室蔵)

 

 厚田村は、札幌から北へ約40キロ、日本海に面し、ニシン漁で栄えた漁村である。

自筆の書と硯

 子母澤寛の祖父梅谷十次郎は、もともと江戸の御家人で、江戸開城ののち彰義隊に参加して戦い、榎本軍とともに箱館に渡り、五稜郭で破れる。降伏した十次郎は、士籍を離れ、厚田村にわたり、旅館を営むなどしていたという。
 十次郎は、「夜になると、子母沢さんを膝の間に入れて、大きな湯呑茶碗で酒を飲みつつ、江戸の話や彰義隊のこと、五稜郭戦争の話をした」(同前)
 新選組の語り部が、なぜ北海道の漁村に生まれたのか、という謎は、この幕末戊辰戦争生き残りである祖父の口承の昔語りにあったのである。

 子母澤寛は、祖父の言葉として、こう語らせる。
 「彰義隊は誰一人あの戦で勝とうとなんて考えていたものはないんだ。(中略)それを覚悟で、命を投げ出しているのは、そ奴らに、人間の恩というものがどういうものかそれを知らせるためなんだ。それがわれば武士(さむらい)の道というものが解るだろう」(『蝦夷物語』)
 この『蝦夷物語』、『厚田日記』、『南へ向いた丘』という一連の厚田ものには、「敗残者」としての祖父への敬慕や、武士(サムライ)の矜持について、さまざまなエピソードが連ねられている。

子母澤寛の文学碑
厚田村市街と日本海を一望できる厚田公園。ここに子母澤ゆかりの品々も展示されている郷土資料室がある
厚田村市街と日本海を一望できる厚田公園。ここに子母澤ゆかりの品々も展示されている郷土資料室がある

 遠く海鳴りを聞き、日本海に沈む夕日をながめながら、サムライのこころをもちながら厚田村に生きた祖父。毎夜その物語る声が、子母澤寛に「官軍史観」とはちがうサムライの物語を描かせたのである。もしそうだとしたら、同じように戊辰の戦いに敗れ、北の大地に根付いた者たちに、同様の物語があっただろうことは想像できる。もしかして北海道のなかにひそむ無骨さの一片は、そのサムライの精神ではないのだろうか。
 新選組の最期の物語を語り継ぐ場としての北海道―そう思うと、土方歳三や旧幕軍、新政府軍の多くの将兵がこの地に倒れたことも、無為ではなかったのかもしれない。

 

 

[関連情報]

  • 厚田村郷土資料室
    住所:厚田村大字厚田村厚田公園内
    電話:01337-8-2933(公園管理センター)
    ※4月25日〜10月末の午前9時〜午後4時まで開館。月曜定休
  • 厚田村のホームページ
    http://www.vill.atsuta.hokkaido.jp/

 

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