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永倉新八 ― 北に生きる
松前、小樽、東京、月形…転居11回

 鳥羽伏見の戦いに敗北し、江戸に戻ったのち、甲府進軍にも敗れた新選組は、ほとんどが離散してしまった。永倉は同志を集め、会津におもむこうと近藤を訪ねるが、「拙者の家臣となって働くなら同意しよう」と近藤に言われて激高し、ついに袂を分かつことになる。

 その後、近藤は捕らわれて刑死、土方は会津、仙台、箱館と転戦する。永倉は、原田らと靖兵隊を組織して北関東を転戦するが、すでに幕軍に利なく、のちに江戸に戻り松前藩に帰参する。すでに明治2(1869)年、まだ蝦夷地は戦火のなかにあったが、永倉の青春をかけた幕末維新・新選組の戦いは終わった。このとき永倉は、満29歳である。

 その後、永倉は明治4年、北海道に戻り、松前藩の医師、杉村松伯の娘よねをめとり、杉村家の養子に入る。名も杉村義衛と改名した。義を衛るというこの名には、おそらく永倉の思いがこめられていたのだろう。
 北海道での永倉の暮らしぶりは、ほとんど記録がないので詳しいことはわからない。
 明治6(1873)年、松前から小樽へ転居したのを皮切りに、永倉はその後の42年間で松前、小樽、東京など11回転居している。東京ではやはり剣術の師範として身を立てていたようだ。
 明治15(1882)年、永倉は樺戸集治監の撃剣師範に就任し、4年間、看守たちに剣術を教えた。集治監での撃剣訓練の目的は、囚人の脱走を防ぐことだったので、数々の修羅場で磨いた永倉の剣術は実戦向きだっただろう。

 樺戸集治監は北海道最初の刑務所で、札幌から車で約1時間ほどの月形町にある。
 この月形という町名は、この樺戸集治監初代典獄・月形潔の姓をとってつけられた。
 明治19(1886)年に建てられた旧樺戸集治監本庁舎は、現在北海道行刑資料館として利用されており、おそらく永倉も足を踏み入れていたに違いない。その裏に樺戸博物館があるが、ここには永倉が樺戸に在住したことを示す『乙ノ部寄留戸籍簿』や、私家本『新選組永倉新八』が展示されている。

私家本『新撰組永倉新八』大正2年、「永倉新八」と題して小樽新聞に連載された読物(全70回)を、永倉の十三回忌にあたり序文などを加えて私家本とし、知人などに配布した。現在は『新撰組顛末記』(新人物往来社)として復刻されている(北海道開拓記念館蔵)
大正2年、札幌で撮影された記念写真。前列中央が永倉新八(北海道開拓記念館蔵)
開庁当時の樺戸集治監(月形樺戸博物館蔵)
月形樺戸博物館大正8年まで設置されていた集治監の資料を展示。永倉新八に関連した資料も見学することができる 乙ノ部寄留戸籍簿新八が樺戸に住んでいたことを示す唯一の資料(月形樺戸博物館蔵)

 

永倉、生涯を北海道に終える。
晩年の永倉が住んでいた小樽の衛生組合事務所。葬儀もこの2階で行われた(写真提供/杉村悦郎氏)
現在の衛生組合事務所の跡地。写真手前が小樽市役所で、その横のマンションの位置に事務所があった

 すでに老境となっていた明治32(1899)年、永倉は小樽に転居し、ここで生涯を終える。
 永倉の後半生は、東京板橋に近藤、土方の墓を建立したり、またいくつもの記録を残すなど、新選組の慰霊と復権に捧げた人生だったといえる。


 晩年のエピソードとして有名なのは、東北帝大農科大学(現在の北海道大学)の撃剣部の学生に乞われて、大学の演武場で学生たちの指導をしたことだろう。型を見せ終わった後、人を斬るときはこうして斬る、と大喝一声振りかぶったまま、道場に倒れてしまった(『永倉新八外伝』)という。そのまま馬車に乗せられて小樽まで帰ったそうだ。永倉74歳。この2年後に永眠する。
 永倉の墓は、東京板橋の近藤、土方の墓の隣と札幌市清田区の里塚霊園にある。

明治9年、永倉が尽力して建立した東京板橋の新選組の慰霊碑(写真提供/杉村悦郎氏) 昭和4年、新選組慰霊碑の横に建てられた永倉の墓(写真提供/杉村悦郎氏)

 

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