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土方、最後の戦い
二股口付近戦地図(「岡山藩水原久蔵所描箱館戦争図」より/市立函館図書館)
二股口の激戦
 明治2(1869)年、土方歳三は、宮古湾に結集していた新政府軍を襲い、甲鉄艦を奪取する作戦を決行した。しかしこの作戦は惨憺たる失敗に終わり、新選組隊士・野村利三郎は戦死、同じく相馬主計は負傷。土方は、箱館に撤退する。 
  宮古湾奇襲を撃退した新政府軍は、4月、蝦夷地奪回のために北上を開始した。
 4月9日、日本海に面した乙部に上陸した新政府軍は、江差を攻略、ここから松前、木古内口、二股口(大野町)の三つのルートで進軍をはじめた。  
 その二股口に立ちはだかったのが土方軍である。
 土方軍は、4月13日、二股口を進軍してきた新政府軍と交戦。翌朝まで16時間の戦闘で、3万5千発の弾丸を費やしたという。兵士の顔は皆火薬で黒くよごれていた、と当時の証言にある。
 新政府軍は土方軍の防備に、二股口を破ることができなかった。
 しかし、松前城が陥落し、木古内口も新政府軍の手に落ち、大野平野に敵軍が迫ったことを知った土方は、五稜郭へ撤退。5月11日には、新政府軍の箱館総攻撃が始まった。
箱館大戦争之図(市立函館博物館) 野村利三郎(中島登「戦友姿絵」より/市立函館博物館) 相馬主計(『旧幕府』第3巻第5号[明治32年7月発行]より)

 

土方、敵弾に斃れる

 新政府軍は、海と陸から箱館を攻撃し、箱館市内でこれを迎え撃った新選組は、池田屋事変で土方と行動をともにした蟻通勘吾や、粕谷十郎らが戦死する。そのほか、島田魁などの多くの新選組は、砲台・弁天台場を守ったが、市内は新政府軍に抑えられ、完全に孤立状態となった。
 五稜郭にいた土方は、弁天台場にかけつけようと一本木関門へと向った。
 土方は一本木関門へ着くと、馬上で白刃を振り上げ「我この柵にありて、退く者は斬る」と自軍を鼓舞したという。
 その時、一発の銃弾が土方の腰を貫く。
 土方歳三、戦死。享年35。奇しくも、近藤勇の享年と同じだった。
 弁天台場で戦っていた新選組も降伏し、新選組はその戦いの歴史にピリオドを打つ。
 榎本は抗戦を断念し、降伏。5月18日には五稜郭が開城され、箱館戦争はここに終結した。

 いま函館山の中腹に「碧血碑(へっけつひ)」という碑が建っている。
 「荘子」の、忠義の人の血は三年たつと碧玉に変わる、という一文から名づけられたこの碑は、箱館戦争が終結して5年後に建てられた。
 箱館戦争直後、榎本軍の死者は、市中いたるところにうち捨てられていた。
 誰もが新政府軍の目をはばかるなか、箱館の侠客柳川熊吉は、死体を集め実行寺境内に合葬し、明治4年には、約800名の遺体をこの場所に改葬する。碑はそこに建てられている。

一本木関門と土方歳三最期の地碑(函館市若松町)
一本木関門と土方歳三最期の地碑(函館市若松町)
明治8年に建立された碧血碑。土方をはじめ約800名の旧幕府軍の兵士たちがまつられている

 

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