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江差・開陽沈没 イメージ
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イメージ 衆人暗夜ニ燈ヲ失ヒ

 開陽丸(正式には「開陽」)は、規模・装備ともに堂々たる幕府旗艦だった。
 榎本武揚は、文久2(1862)年オランダへ留学し、科学技術や国際法を学んだ。このとき彼は幕府が発注した開陽丸の建造、進水に立ち会う。約5年後、完成した開陽丸に乗り込んだ榎本は、慶応3(1867)年に帰国している。
 榎本が新政府軍への開陽丸の引き渡しに応ぜず、蝦夷地を拠りどころとしたのも、開陽丸の存在が新政府軍と軍事的にも政治的にも拮抗する手段であるという現実的な分析があったからだ。その開陽丸が沈んだのである。
 函館図書館が所蔵する旧幕臣・小杉直道が記した回想記『麦叢録』には、
 「衆人暗夜ニ燈ヲ失ヒシニ等シ」
と表現されている。
 蝦夷「共和国」のシンボルが失われたこのとき、箱館戦争の帰趨が決まったと、榎本や土方が感じたとしても不思議ではない。

 それにしても榎本艦隊は、常に暴風雨の不運に泣いた。
 江戸脱走の際には、開陽丸の舵が壊され、それが江差沖の沈没につながった。江差沖では開陽丸を失い、それに代わる戦艦を求めて宮古湾に新政府軍の甲鉄鑑を奪いに行った際にも、嵐で3隻中2隻が遅れをとり、敗因となった。のちに榎本が気象学に傾倒するのも、榎本艦隊の海軍奉行・荒井郁之助が初代中央気象台長になるのも、そのことと無関係ではないだろう。

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当時の開陽丸(写真提供/江差町)
 
開陽丸、復元!!
海底から引き揚げられた遺物の数々
艦内の大砲展示。実際に大砲が設置されていた場所や人々の様子がよくわかる
ここで土方や榎本がさまざまな議論を戦わせていたことだろう

 その開陽丸の沈没場所が「発見」されたのは、昭和49(1974)年。
 100年をこえる歳月を、海のなかで眠りつづけた無念の戦艦は、ゆっくりと姿を見せ始めた。翌年から始まった引き揚げ作業で発掘された遺物は32,905点(江差町資料)。平成2(1990)年には、開陽丸は現在の場所に実物大で復元されるのである。

 大型フェリーなど、現在の大型船を見慣れている我々には、幕府旗艦とはいえ意外なほど大きく感じない。幕府留学生である榎本ら、当時20代から30代そこそこの若者たちが、この船で大西洋、インド洋、太平洋と航海してきたことを考えるとき、彼らが戊辰戦争の最後を戦った指導力の源がわかる気がした。
 この復元された開陽丸の内部は、展示施設になっており、歯車や蒸気機関の部品など、海のなかで眠っていた多くの遺物が展示されている。またクルップ砲の模型が実際さながらに配備され、今にも戦闘が始まりそうにも見える。協議する榎本や土方の人形、実際に体験できるハンモックも楽しい。

海に翼を広げるように浮かぶ江差のシンボル、かもめ島(写真提供/江差町)

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