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江差・開陽沈没
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江差沖で沈没した洋式軍艦「開陽丸」(写真提供/江差町)
開陽丸に26台搭載されていたクルップ砲。全長約3メートル(開陽丸青少年センター蔵)
▲ 開陽艦於江差破船之図(「麦叢録附図」/市立函館図書館収蔵)
イメージ 旧幕府軍の侵攻図
わずか1年半だった開陽丸の命

 松前をあとに国道228号を北上し、江差へ向かう。
 松前から江差(えさし)までは車で約1時間の道のりである。海岸沿いをひたすら走っていくと、前方に三本マストの帆船が見えてきた。江差の町だ。
 帆船は、榎本艦隊の旗艦で、江差沖で座礁沈没した開陽丸を復元したものである。

西洋式海軍学を勉強するため26歳でオランダに留学し、開陽丸とともに帰国した榎本武揚(写真提供/江差町)  開陽丸は慶応2(1866)年、徳川幕府が40万ドルの巨費を投じてオランダに発注した軍艦で、製造はドルトレヒトにあるヒップス造船所があたっている。大砲にはドイツのクルップ砲が据えられた。高性能なクルップ砲は、イギリスのアームストロング砲とならぶ当時最高峰の大砲で、開陽丸は世界的にも最新鋭の軍艦だったといえる。
 オランダから横浜までの航海に約150日を要し、幕府に引き渡されたのが慶応3(1867)年5月。旧幕府軍にとって、開陽丸は最大の武器であり、また勝利への拠り所だったに違いない。

 明治元年11月5日に松前を制圧した土方隊は、ここにしばしとどまって鋭気を養い、同月11日に江差に向けて進軍を開始。江差に入ったのは16日だが、この時すでに、江差は榎本艦隊に制圧された後だった。
 そして、ここに悲劇が待っていた。
 その日夕方からやにわに「たば風(北西の風)」が強まり、夜には暴風雨となった。沖合に碇泊していた開陽丸は、この強風によって碇(いかり)も効かなくなり、海岸方向へと流されていった。
 そして座礁。数日後、開陽丸は海へと没した。さらに、救援に向かった旧幕府軍艦隊の神速丸も座礁、沈没する。

 

イメージ 歳三の「嘆きの松」

 江差に着いた土方が目にしたのは、船体を傾け海へと沈んでいく開陽丸の姿だった。沈んだのは、いまのフェリー港防波堤先端付近である。
 海軍力では勝っていた旧幕府軍にとっては、まさに「刀折れた」感覚だったろう。箱館戦争の、いや歴史の分岐点になったと言っても言い過ぎではない。

 江差ではいま、かつて北前船交易やニシン漁で栄えた当時の面影を伝えようと、旧国道を「いにしえ街道」として整備している。通り沿いには、廻船問屋だった横山家や旧中村家の建物が当時のまま残っているが、これは箱館戦争において、江差でほとんど交戦らしい交戦がなかったためにほかならない。

 この道を山側に入り少し登ったところに、瀟洒な洋風建築がある。これは明治20(1887)年に建てられた旧檜山爾志(にし)郡役所だ。ここからだと、ちょうど江差港やかもめ島を見渡すことができる。
 建物の前に、幹が途中から直角的に曲がった松がある。地元では「土方歳三・嘆きの松」と呼んでいる。
 土方は、ここで榎本と沈んでいく開陽丸を見つめ、この松をこぶしで叩きながら男泣きに泣いたといい、幹にはこぶし大の瘤(こぶ)があり、土方が叩いた跡だというのだ。
 もちろんその真偽は定かではない。

商家や土蔵などが並び、かつての面影を伝える「いにしえ街道」
松ノ岱公園の護国神社には、戦死した新政府軍の92名の霊が祭られている
明治20年に建てられた旧檜山爾志郡役所。手前にあるのが「嘆きの松」
土方歳三が泣きながら叩いたという松の木
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