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特集 新選組 北へ!
土方歳三と永倉新八
明治初年、箱館戦争を旧幕府軍の一員として戦った男がいた。
戦の敗北ののち、彼は名を変え、日本海の荒波に洗われる北の土地に住み着く。
幾星霜がすぎ、男には、やがて孫が生まれた。
孫は、男の膝で、幕末に散った男たちの生き様を子守歌代わりに聞いて育った。
孫は、やがて作家として『新選組始末記』など
新選組史料の白眉となる作品を書くことになる。
北海道厚田村出身の作家・子母沢寛である

新撰組袖章 新撰組袖章

北海道と新選組のつながりは深い。
新選組終焉の地となったのは、戊辰戦争の最後を飾る函館であり、
新選組副長・土方歳三は、その命を箱館戦争のなかに散らした。
松前藩に生まれた元二番隊隊長・永倉新八は、
そののち杉村義衛と名を変え、晩年を小樽で過ごした。
そして、その新選組の至高の語り部となったのが、上記の子母沢寛である。

北に向かい、北に散り、そして北に生きた男たち。
北海道の新選組の足跡を訪ねる旅に出た。


     


土方の微笑 新撰組関連の地マップ
 
新選組、北海道に上陸す
十月廿日南蝦夷地之内鷲ノ木着船図(「麦叢録附図」/市立函館図書館収蔵
鷲ノ木(森町)、榎本武揚上陸の地
榎本武揚(市立函館図書館蔵)

 北海道の新選組の足跡は、森町鷲ノ木に始まる。
 明治元(1868)年10月20日、新暦では12月3日、元幕府海軍副総裁・榎本武揚率いる旧幕府軍艦隊は、森町鷲ノ木沖に到着した。その数、総勢約3000とも言われるなかに、土方歳三と新選組隊士の姿もあった。

 鷲ノ木は、函館から約45km北に位置する、噴火湾に面した小さな漁港である。札幌から国道5号線を海沿いに走り、森町市街へ入る手前、鷲ノ木トンネルを抜けるとすぐに「榎本武揚上陸の地」という案内標識が目につく。
 標識に従い進むと、「鷲ノ木史跡公園」があり、「箱館戦争榎本軍鷲ノ木上陸地跡」の石碑が立っている。
 このとき蝦夷にやってきた旧幕府軍のうち、新選組は120名ほどだったとされるが、京都から土方と行動をともにした新選組隊士は、島田魁、中島登、相馬主計、野村利三郎などわずか10数名。あとは、桑名、備中、唐津、各藩士が加わった寄り合い所帯だった。

 折からの風波が彼らを迎え、海に投げ出されるなどして16人がここで命を落とした。
 風雪の蝦夷、逆巻く波。
 駒ヶ岳の麓に広がる蝦夷の大地を踏んだ彼らは、このとき何を思っただろう。

戊辰の混沌

 戊辰戦争と呼ばれる旧幕府勢力の一連の抵抗は、慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いに端を発したが、この戦いで将軍・徳川慶喜は兵を見捨てて江戸へと逃げ去った。それは同時に事実上の徳川幕府の崩壊を意味した。
 京都守護、わかりやすく言えば薩長をはじめとする倒幕勢力排除を任務とした「新選組」も、新政府軍の攻撃に敗走を続け江戸へと戻った。文久3(1863)年3月、壬生(みぶ)浪士組として誕生した新選組もまた、この時点で事実上消滅した。その後まもなく近藤勇は斬首され、沖田総司も病死した。

 近藤勇という盟友を失った土方は、なおも戊辰戦争を転戦し新政府軍に抵抗を示した。宇都宮、会津などの戦いを経て、仙台へ入ったのは明治元年9月のことだった。
 一方榎本は、新政府の軍艦引き渡しを拒否し、八隻の軍艦を率いて8月19日に江戸を脱出。土方と同じころに仙台へ入っていた。
 当時の東北では、仙台・米沢両藩を中心に25藩が「奥羽列藩同盟」を結び、新政府軍と戦う姿勢を示していたが、次々と新政府軍に降伏し東北もついには制圧されてしまう。
 「士道」に殉ずることを新選組の大義とした土方に残された抵抗の地は、もはや蝦夷しかなかったのである。
 

近藤勇像/新選組隊士中島登の描いた「戦友姿絵」より(市立函館博物館)

 

十月廿日南蝦夷地之内鷲ノ木着船図(「麦叢録附図」/市立函館博物館収蔵)
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北海道人 十月廿日南蝦夷地之内鷲ノ木着船図(「麦叢録附図」/市立函館図書館収蔵