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特集 新選組 北へ! 北海道人トップページへ
食らう永倉新八 杉村悦郎
プロフィール 杉村悦郎(すぎむら・えつろう) 1950年、北海道生まれ。タウン誌編集者を経て現在、企画制作会社(株)イザ勤務。2003年12月、『新選組永倉新八外伝』(新人物往来社)を出版した。新選組副長助勤・永倉新八のひ孫にあたる。
永倉新八が晩年愛用した羽織

 今年のNHK大河ドラマ『新選組!』の評価は賛否両論のようだが、脚本の三谷幸喜がこの番組でこだわった隠し味のひとつが「食べもの」である。そばつゆの濃さに始まり、串団子の数、納豆の薬味、ところてんのタレなど、食文化のお国柄を印象的に語るシーンが登場する。新選組とは、関東風の濃い味で育った男たちが、なじみ難い西の味の世界で戦い、敗れていった物語でもある。近藤勇は池田屋事変後、養父周斎に宛てた手紙で「兵は東国に限り候」と書きとめたが、その信条の根っこには、西の味に対する違和感もあったはずである。

 そう考えると、私の曽祖父である永倉新八はどんな食べものを好んだのか、気になってくるが、いくつかのエピソードを残している。
 新八の直話をまとめた『新撰組顛末記』を読むと、酒席の話は数多く登場するが、食べものについても二つほど語っている。
 慶応三年正月、新八は伊東甲子太郎、斉藤一等と「あひる十羽を買いこみ、酒だけしたくさせよう」と島原の角屋に登楼した。その調理法は語っていないが、あひる(家鴨)を使って鴨鍋か鴨すきにして、精をつけようとしたのは間違いないだろう。
 次いで明治元年の冬の話である。新選組は実質的に崩壊し、新八は米沢藩で謹慎していたが、盟友の芳賀宜道とともに東京をめざして敗走を決行、九死に一生を得て、ようやく浅草にたどり着く。そこで「山谷の重箱でひさしぶりで江戸前のうなぎで腹をみたす」とある。 
 「重箱」は寛政年間、初代儀兵衛が開いた鰻鯰の蒲焼屋が発祥である。当時、蒲焼は皿に乗せて売っていたが、儀兵衛は自ら考案した重箱に入れて売り、評判となった。浅草は、新八が生まれ育った土地であり、ひさしぶりの味はさぞかし懐かしく、うまかっただろう。「重箱」は現在、赤坂の本格的な料亭として知られ、政治家の密談場所として新聞記事で見かける。

 新八は、斬り合いを繰り返した新選組時代のこんな話も家族に語っている。
 「路上に落ちていた『きり餅』を一ツ見付けた。夢中でそいつを拾い、間髪いれず頬ばった。おそらく丸呑みしてしまったようだ。ところで、その餅の味の美味かったこと。生涯忘れないな。それから、白刃を振りかざしてまた敵を追いましたな」(栗賀大介『新選組興亡史』)
 新八の孫たちの話も拾っておきたい。大正二年、近藤勇の娘と名乗る山田音羽が新八を突然訪れる。そのとき持参したお土産は「甘納豆」だったと、孫の利郎は記憶している。さらに新八から羽織の袂に入ったお菓子をもらったことも覚えており、新八は案外甘党だったのかもしれない。
 また、もうひとりの孫の逸郎は生前、「晩年の新八はどんなものを食べていたか」という私の質問に「新八は牛鍋が好きだった。今でいうすき焼きだ。毎晩のように晩酌もしていたし、酒は好きだったんだろうな。当時は小樽に住んでいたから、北の誉の酒を呑んでいた」と答えている。

 新八は樺戸集治監の剣術師範を辞した後、東京で暮らしつづけ、明治三十二年、小樽に舞い戻ってくる。北の誉酒造はその二年後、小樽の山田町で創業し、明治三十五年には奥沢町に酒造工場が建てられた。北の酒に酔いながら、その脳裏に浮かぶものはなんであったか興味はつきない。
 新八は大正四年に他界したが、晩年の新八は甘党でもあり、牛鍋と晩酌をこよなく愛した。なかなかの健啖家だったようであるが、家の味というものが代々受け継がれていくとすれば、杉村家は濃いめの味付けの家系であったから、新八も江戸っ子らしく、濃い味つけを好んだはずである。