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イメージ 文人たちが出会った味をたどる
カニ缶
カニ缶イメージ
『蟹工船』の書店向けPOP







『工場細胞』のモデルとなった北海製罐の工場
『工場細胞』のモデルとなった北海製罐の工場









『蟹工船』初版本
『蟹工船』初版本
カニ缶の旅
●『蟹工船』―小林多喜二の小樽
 その昔、少年だったころ、一升瓶を持って酒屋にお使いに行くと、当時は「もっきり屋」も兼ねていた酒屋の棚の上に燦然と輝くカニ缶があった。仕事を終えた男たちは、帰宅までの時間を、缶詰を肴にそこで過ごすのだが、その缶詰といえば、サバ缶だったり、鮭缶だったとしても、よもやカニ缶ではなかったと思う。カニ缶は、まるでその店の王様のごとく、酔った男たちをいばりくさって睥睨していたように見えた。
 まだ北洋漁業が盛んで、200海里という言葉もなかった当時、北海道の毛ガニが決して高価だったわけではなく、わが家にも年に何回かは、毛ガニが新聞紙に包まれてやってきた。しかし、当のカニ缶は決して食卓にあがることなく、その存在は子供心にもどこか謎めいて、どこか高貴な食べ物という印象がしみついた。意識の刷り込みとは恐ろしいものである。

 このカニ缶が文学のなかで登場するのは、残念ながらそんなカニ缶へのオマージュが語られるのではなく、もっと暗い階級闘争の物語としてだった。
 「おい、地獄さ行ぐんだで!」
という有名な冒頭のフレーズから始まる、小樽で活躍したプロレタリア文学作家、小林多喜二の代表作『蟹工船』である。この小説は、過酷な労働で知られたカムチャッカ沖母船式タラバガニ漁のカニ工船を舞台に、労働者の抵抗を描いたプロレタリア小説の最高傑作のひとつと言われている。
 
 小林多喜二が生きた小樽の街を歩いてみた。
 北のウォール街と呼ばれた往事の姿をとどめる多くの歴史的建造物群が、独特の雰囲気をかもしだしている。現在はホテルになっている旧北海道拓殖銀行小樽支店は、大正12年の建築。多喜二は、ここで銀行員として働きながら、『蟹工船』や『不在地主』などの作品を執筆した。 
 運河沿いを歩いていくと、北海製罐の工場が見えてきた。
 多喜二の小説『工場細胞』に登場する「H・S製缶工場」のモデルとなった工場で、これも大正から昭和の初期に建てられたもの。北洋漁業の開拓者である日魯漁業の子会社として、当時から缶詰用の缶が作られていた。酒屋の棚の上のカニ缶も、あのピカピカ光る缶はここで作られていたのだろう。
  
 多喜二の展示コーナーがある、運河の近くの市立小樽文学館を訪ねた。
 ここで『蟹工船』の自筆原稿(複製)や初版本を見せていただいた。面白かったのは、書店用の当時のPOPである。「多喜二は当時の人気作家でしたからね」と学芸員の方が話してくれた。実際は発禁になったはずだから使われたかどうかは分からない。
 原稿の繊細で女性的な文字は、あの奇妙に荒々しい文章には似合わない気がした。時代がちがったら、彼はもっと別の作家として現れたのかもしれない。
 多喜二が特高警察に殺されるのは、この4年後。29歳の若さだった。


『蟹工船』自筆原稿
『蟹工船』自筆原稿

小林多喜二(1903−1933)
 小林多喜二は、明治36年(1903)現在の秋田県大館市に生まれ、4歳のときに小樽に移住する。家業のパン工場を手伝いながら小樽高等商業学校に進学。一級下には伊藤整がいた。小樽高商を卒業した多喜二は、北海道拓殖銀行小樽支店に入行し、銀行員の仕事の合間に、『一九二八年三月一五日』や『蟹工船』、『不在地主』など、北海道を舞台としたプロレタリア小説を執筆、いちやく全国に知られるようになる。富良野でおきた磯野小作争議を題材とした『不在地主』を理由に昭和4年に拓銀を解雇された多喜二は、上京し、作家活動と社会主義運動に身を投じるが、昭和8年に特高警察に逮捕され、拷問によって絶命する。享年29。

市立小樽文学館
石川啄木、小林多喜二、伊藤整など、小樽ゆかりの作家・文学者たちについての資料を収集し、展示している。
[住所]小樽市色内1丁目9-5
[TEL]0134-32-2388
[開・閉館日時]9:30〜17:00(ただし入館は16:30まで)
[休館]毎週月曜、祝日の翌日(ただし土・日の場合は休まず振替)、年末年始(12/31〜1/5)
大人100(80)円、小・中学生50(40)円、( )内は20名以上の団体料金
※特別展の場合、料金が変わることがあります

・小樽市のホームページ
 http://www.city.otaru.hokkaido.jp/


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