道東、釧路のとなりまちの白糠(しらぬか)町で、400頭の羊を飼う武藤浩史さんを訪ねた。かれは、おそらく日本の羊界(羊好きの人は不思議なネットワークでつながっている)でもっとも有名な羊飼いである。
牧場では、サフォーク、ロマノフ、ポールドーセット、サウスダウン、チェビオット、ベレンデール、ボンドコリデールとさまざまな種類の羊たちがモクモクと草を食べている。ここは羊肉販売が中心だが、羊毛の取り扱いもしているので、いろいろな毛色や質の需要がある。そのため、10種類もの羊がいる珍しい牧場だ。
私たちが近づくと、羊たちはゆっくり後ずさりした。でも、しばらくすると音もなく近寄ってきて、ビー玉のようなクルリとした目でじっとこちらを見ている。肩で小さく息をしている様子がなんともかわいい。顔の前に手を出すと、しっとりした鼻息があたたかい。いったい何を考えているのだろう。「羊は憶病だけれど、すごく好奇心が強いんですよ」と武藤さん。
武藤さんは京都生まれ。北海道にあこがれて帯広畜産大学に入学し、羊の研究に取り組んだ。「シープクラブ」という愛好会も結成し、仲間とともに羊をさばき、皮をなめしたり、毛を紡いだりの日々を過ごす。卒業後はカナダへ渡り、実地で羊の飼育を学び、「羊飼いになろう」と決意を固めて北海道へもどる。
そして1987年、白糠町に土地をみつけて35頭の羊を飼いはじめた。しかし最初は困難の連続だったという。まずは資金の確保、新規就農のさまざまな苦労、そしていちばんの難関は販路の確保。羊肉は通常の流通ルートにのらないため、自分で買い手を見つけていくしかない。しかも、一般的に食べられるロースやモモだけでなく、スネやバラなどの部位も利用できなければ、せっかくの羊がかわいそうだし、もちろん採算も合わない。
そこで武藤さんは自分で羊の丸焼き道具をつくり、肉と道具を車に積みこんで、出張販売を開始した。これなら1頭全部を使いきれる。なにより生肉のおいしさを存分に宣伝できる。武藤さんは全道全国をかけ回った。
やや遠火の炭火で、余分な脂をじわじわと落としながら待つこと2時間。肉汁を逃がさないように表面をパリッと焼き上げた羊肉は、香ばしい香りがたまらない。このおいしさを一度味わった人は、すっかり羊のとりこになってしまう。こうして武藤さんは確実にファンを増やしていった。
評判が広がるにつれ、羊にこだわるレストランから直接注文が来るようになった。そこから「内臓も使いたい」「自分で枝肉をさばきたい」という羊を愛する料理人との出会いがあり、1頭まるごと…の問題もクリア。
また肉だけでなく、毎年春に毛刈りをしたあとは、羊毛を手紡ぎする人たち(スピナーとよばれる)に販売するほか、専門の工房と連携してくつ下に加工。それでも余った毛は牧舎の敷きわらにし、最終的には良質な肥料とする。
こうして、武藤さんの周りには有機的で親密な口コミによる「羊ネットワーク」が形成されていった。牧場をはじめたときから、かれがずっと目指しているのは、「衣食住をまかなってくれる羊を有効に活用すること」。その願いは20年の歳月をかけて、少しずつ形になっている。
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