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北の地図を愉しむ−その歴史といま
最上徳内
蝦夷興地之全図
蝦夷地図式
蝦夷島奇観
蝦夷地沿海実測図

 このような北海道の地図は18世紀末ころから大きく変化する。
 それは当時の世界情勢が、はるかユーラシア大陸の東の果てにある蝦夷地にも影を落としたからだ。

 帝政ロシアは、16世紀からシベリアへの進出を開始し、17世紀末にはカムチャッカに達する。そして18世紀に南下政策をとりはじめたロシアの活動は、徐々に日本の北辺、蝦夷地に迫ってきていた。
 そのロシアの存在が自覚されるようになるのは、工藤平助の『赤蝦夷風説考』(1783頃)が契機だった。かれは蝦夷地を開発し南下するロシアと通商することを提言し、その説に関心をもった老中・田村意次は、1785年(天明5)、最初の幕府探検隊を蝦夷地に送るのである。
 千島や樺太にも及んだこの探検に若くして加わったのが最上徳内(図1)であり、この探検の結果まとめられた地図として「蝦夷輿地之全図」(図2)が知られている。
 この地図は、簡便な方法とはいえ、初めて本格的測量法を用いて作られたものであり、現在の北海道のかたちが徐々に地図に現れてきた最初のものだった。

 この間北方情勢はしだいに緊迫を強めていく。
 1789年(寛政元)には、和人の横暴に対してアイヌ民族が蜂起した「クナシリ・メナシの戦い」が起き、1792年にはロシア使節ラックスマンが根室に来航、1796年にはブロートン率いるイギリス海軍のプロビデンス号が噴火湾に来航した。危機感を抱いた幕府は、1799年に東蝦夷地全域を松前藩から召し上げ直轄。1806、7年には幕府に通商を拒まれたレザノフが樺太や択捉を襲撃する事件が起き、1807年には幕府は松前藩を奥州梁川に移し、ついに全島を直接経営することとなった。

 これらのことは、幕府に蝦夷地の調査を何度もうながすことになり、そのなかで活躍した近藤重蔵(図3)や村上島之允(図4)などが、さまざまな地図を残している。
 しかし北方の地図製作の画期となったのは、1800年(寛政12)から始まる伊能忠敬(図5)の全国測量と地図製作だろう。井上ひさしの小説『四千万歩の男』の主人公であり、初めて実測の日本地図を完成させた伊能忠敬は、この年蝦夷地にわたり、昼は歩数で距離を測り、夜は星の観測によって緯度を確定し、東蝦夷地の正確な実測地図を作製した。その後9次にわたる測量によって、すべての日本沿岸を実測した大図214枚・中図8枚・小図3枚の「大日本沿海輿地全図」が完成する。そのうち伊能が測量できなかった西蝦夷地は、間宮林蔵の手によるものだった(図6)。
 推歩先生こと伊能はこの完成を見ることなく、74歳で世を去る。

 北方の探検と地図の作製は、国際情勢の緊迫を背景としていたが、伊能図もま
た同様の運命にまきこまれる。1828年オランダ商館付医師シーボルトが伊能図などの地図を国外に持ち出そうとした「シーボルト事件」が起き、このことでシーボルトに地図を渡した「大日本沿海輿地全図」編纂者の幕府天文方・高橋景保は死罪となった。しかし地図は模写されて持ち出され、かれの大著『日本』によってヨーロッパに紹介されることになる。

 この時代、地図は「国」に支配されなかった土地と人々に、国境線を引くためのものだったともいえる。
 地図の空白が埋められていくと同時に、そこには「国」があらわれてくる。地藩や幕府ではなく、「日本」というものを強く意識させるものとなったのである。
 北海道・樺太・千島の地図のかたちが、次第にリアルで正確になっていく過程は、日本が否応なしに世界と国家に向き合っていく過程でもあった。
 それが蝦夷地図にひそむ、もうひとつの物語なのである。

 

 
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蝦夷地沿海実測図