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北の地図を愉しむ−その歴史といま
海東諸国紀,蝦夷
海東諸国紀,蝦夷
世宗大王
地図,北海道
和漢三才図会

 北海道のかたちが目に見えるようになってきたのは、いつころのことだろう。
 北海道と思われる「夷島」が初めて登場するのは、日本の地図ではなく、1471年に朝鮮で著された『海東諸国紀』のなかの地図である(図1)。
 この『海東諸国紀』の著者・申叙舟は学者であり、世宗大王(図2)とともにハングル文字を考案したことでも知られる。ところが日本の地図にこの「夷島」が現れるのは、それからさらに100年も待たなければならない。
 もちろん北海道=蝦夷島の存在は古代から知られていた。
 『日本書紀』に描かれた阿倍比羅夫の北征においてかれらが渡った「渡島」が北海道であることは、異説はあるものの、いまも有力な説のひとつであるし、奈良・平安時代、鎌倉時代を通じて「蝦夷千島」の存在はたびたび文献に登場する。
 にもかかわらず、16世紀末になって北海道が初めて地図上に現れてくるのは、このころ渡島半島南端に松前氏が成立し、豊臣政権や徳川政権に服属し、北海道南部が幕藩体制、すなわち日本の版図に組み入れられたことと無関係ではない。
 徳川家康は、謁見した松前藩初代藩主の松前慶広に、ともに高麗の近くとして対馬藩の家老を引き合わせているが、当時の地理感覚はそのようなものだったのである。

 このころの北海道のかたちはどのように描かれているのだろうか。
 江戸幕府は、数回にわたって諸藩に「国絵図」の提出を命じている。そのうち1644年(正保元年)から始まる「正保国絵図」が、松前藩が提出した最古の地図になるが、これは原図も写しも残っていない。しかしその国絵図をまとめた「正保日本総図」の写しから、それがどのようなものだったか知ることができる。
 それは実際の北海道の姿とは似ても似つかない。まさしく「異形」の地図である。
 島の中央には大きな「沼」が描かれ、石狩川とつながっている。北には樺太が描かれ、東には千島列島が描かれているが、その形も並び方もでたらめである。しかし島の周囲には、松前からオクシリ、イシカリ、トママエ、ソウヤ、アツケシ、トカチ、ユウハリ、シリキシナイなどいまにつながる地名が北海道を一周するように正確に記されている。
 このような異形の地図は、「元禄国絵図」(図3)や『和漢三才図会』(1712年)のなかの「蝦夷之図」(図4)、『津軽一統志』(1731年)の付図、林子平の『三国通覧図説』(1785年)の「蝦夷国全図」など、本格的測量による北海道地図が生まれる19世紀まで、多彩な形の地図が多く生まれている。

 このような一見グロテスクともいえるような多彩なかたちをもった異形の地図を見ていると、ある種の感銘すらを覚えずにいられない。
 これらの地図を作るために、野を分け、断崖をこえて、北海道を踏査した者たちの存在と思いが、異形の地形のなかから浮かび上がってくるのである。

 

 

 
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