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特集 北の花めぐり 北海道人トップページへ
タンポポ,説明
北海道から全国へ…
セイヨウタンポポの来た道
ウイリアム・ベン・ブルックス

タンポポ 日本ではじめてセイヨウタンポポについて書かれた文献は、1904年(明治37年)の植物学誌である。植物学者の牧野富太郎氏はこう書いている。
 「札幌ニ在テハ欧品大イニ路傍ニ繁殖セリト聞ケリツイニハ我邦全土ニ普ネキニ至ラン(札幌ではヨーロッパからの植物が道ばたにたくさん繁殖し、やがて日本中に広がるだろう)」。その後、この花はセイヨウタンポポと名づけられた。
 また、1910年に半沢洵氏が書いた『雑草学』という本には、札幌農学校の芝生に咲くセイヨウタンポポが紹介されている。白黒写真だが、広い芝生一面に広がるタンポポのようすがよくわかる。

 セイヨウタンポポは、いつ日本にやって来たのだろう。
 調べてみると、いくつかの説があることがわかった。
 ひとつは、明治のはじめに酪農の父といわれるエドウィン・ダンが、牧草といっしょに導入したというもの。また、外国からの荷物に種がついてきた(昔は荷物のクッション材に乾草を使った)という説や、宣教師が持ってきたという説もある。
タンポポ  そしてかなり有力と思われるのは、札幌農学校の開校当時に、野菜として栽培がはじまったという説である。アメリカのマサチューセッツ州から来た教師、ウイリアム・ペン・ブルックスという人がサラダ用の野菜として持ち込み、試験栽植したものから種が逃げ出して、各地に広がったといわれている。

 ブルックスという人物について、もう少し調べてみよう。
 札幌農学校は、現在の北海道大学の前身で、1876年(明治9年)に開校した。「ボーイズビーアンビシャス」で有名なクラーク博士がその基礎を築き、欧米農業の導入の窓口として、いまでいう農業試験場のような役割を果たしていた。
 そこで農業分野を担当したのが、ブルックスだった。1877年に札幌に着任し、初代のクラーク学長の後をひきついで活躍した。生徒たちからは「ブル先生」と慕われ、農学校で一番長く札幌に暮らした外国人教師である。最初は3年間の契約だったのが、延長をくりかえして結局10年以上もつとめた。奥さんもアメリカから呼び寄せ、子どもも2人札幌でもうけている。

タンポポ 彼は、多くの野菜や牧草の種子を海外から取り寄せて、それらの栽培法を学生だけでなく、周囲の農家にも熱心に指導した。その功績は、北海道の農業にとって非常に大きい。そのころ栽培した野菜には、玉ネギ、ジャガイモ、とうきび、キャベツ、トマト、ニンジンなど、すっかり北海道名産となったものが多い。
 一方、ブルックスが持ち込んだ野菜のなかで、エンダイブやコールラビなど、最近になってようやく日本で食べられるようになった野菜もある。
 そしてセイヨウタンポポのように、食用としてはほとんど受け入れられなかった野菜もある。タンポポは、ヨーロッパでは昔からサラダとして食べられているし、韓国でもキムチやナムルにする。しかし日本では、『野菜』として広まる前に『雑草』のイメージが定着してしまったのだろう。

 もともと日本には、カンサイタンポポ、シロバナタンポポなど22種もの在来種がある。これらと、セイヨウタンポポとの見分け方はとても簡単。花を包んでいる緑の部分(外総苞片)が、下向きに反り返っていればセイヨウタンポポ、真っすぐ上を向いていれば在来種。比べてみると、私たちの周りにあるのは、ほとんどがセイヨウタンポポであることがわかる。約百年という短期間でここまで広まったのは、成長が早いこと、受精なしに単独個体で繁殖できること、種子が軽く風に飛びやすいことなどによる。

タンポポ でも、ここで間違えてはいけない。
 セイヨウタンポポが増えたせいで、在来種の土地がうばわれ、姿を消してしまったわけではない。その原因には、人間が土地開発を一気に進めたことが大きく影響している。セイヨウタンポポは、道路や住宅地、荒れ地など、在来種が生きていけないような環境でも丈夫に育ち、元気な花を咲かせているのだ。

 

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タンポポサラダ タンポポサラダ