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  北海道人トップページへ   特集 北の縄文を旅する
      津軽海峡から噴火湾へ-縄文のクニと海のネットワーク
       
  遺跡,写真
中野B遺跡(函館市・縄文早期)


遺跡,写真
大船C遺跡(南茅部町・縄文中期)


遺跡,写真
舟形土製品(戸井貝塚出土)
縄文時代後期初頭



http://www.oshima.pref.hokkaido.
jp/os-tssku/joumon/joumon.html

渡島地方の主な縄文遺跡

http://www.museum.hakodate.
hokkaido.jp/

市立函館博物館

http://www.pref.aomori.jp/
sannai/

三内丸山遺跡へようこそ

http://www.dish.ne.jp/toi/
戸井町
 
●津軽海峡の両岸に、豊かな縄文の地<クニ>が広がっていた
 北の縄文の旅は、津軽海峡からはじまる。
 いまから約10年前、津軽海峡をのぞむ青森市の県営野球場建設予定地の発掘現場から、驚くべき遺跡が発掘された。
 「三内丸山遺跡」である。
 約5500年前から1500年間にわたって続いた集落、巨大な柱構造物、長さ30メートルという日本最大級の竪穴住居。縄文のイメージを塗りかえたといってもいい。工事によって消失する予定だった遺跡は保存され、県営球場は建設が中止となった。いまでは三内丸山遺跡は、日本一有名な縄文遺跡となった。 
 その数年後、今度は津軽海峡の対岸の道南各地で、驚くべき発見があった。
 函館市郊外の丘陵から、三内丸山遺跡をさかのぼること2000年の中野B遺跡から、縄文時代早期としては日本最大級の約650基の竪穴住居を持つ集落跡が発見された。さらに噴火湾に面した南茅部町では、三内丸山遺跡と同じころに約600基をこえる竪穴住居の存在が推定される大船C遺跡など、大規模な集落がいくつも存在することが明らかになった。
 三内丸山遺跡に匹敵する遺跡群が、北海道側にも存在したのである。縄文,土器,写真
 大船C遺跡と三内丸山遺跡は、同じ<円筒土器文化>に属している。平底で、筒型を中心とした土器であり、この文化圏は津軽海峡を中心として北は石狩平野、南は秋田、盛岡付近に至る北東北一帯に及んでいる。
 津軽海峡の両岸に、豊かな縄文の地<クニ>が広がっていた。
 こう想像するのは楽しい。



 かつて北海道にわたった開拓者たちは、この海峡を越えることを「しょっぱい川をわたる」と表現した。しょっぱい=塩辛い川、津軽海峡は、常に北海道と本州を隔絶し、ひとつの<国境>として位置しているかに見える。しかし、実は津軽海峡全体がひとつの文化圏とでも呼べる関係にあることは、意外と知られていない。
 たとえば江戸時代から昭和まで、ニシン漁全盛期には松前・江差には多くの出稼ぎの漁民たちが対岸からやってきた。今も双方で縁戚同士にある人は多く、津軽や下北からお嫁にきたというオバサンたちにわたしはよく出会った。食べ物や言葉、両岸で共通する文化のかたちは少なくない。
 さかのぼれば、北前船は海の路に豊かな産物を運んだし、安東氏が支配した14世紀ころの津軽半島十三湊には、多くの京船、夷船が出入りしたという記録があるように、アイヌの祖は交易の民としてアクティブに津軽海峡を行き来している。
 その交易の路は、すでに縄文時代から始まっていた。



縄文,土器,イメージ 函館市内から東へ車で約30分、戸井町の汐首岬に出る。ここは海峡がわずか20キロと最もせばまり、本州との最短の地点である。指呼の間という言葉があるが、確かにここに立つと、下北半島は目と鼻の先である。
向こう岸に行こう! この岬に立った縄文人が思わないはずがない。
 こう思った縄文人が作ったのかどうかは定かではないが、戸井町の縄文時代後期の遺跡である戸井貝塚からは、舟形土製品が出土している。舟をかたどった土の模型とおぼしきものだ。線がきざまれた舟べりのかたちは、まるで波よけの板材に見える。
 丸木船を板材で補強し、彼らは海峡を行き来したのだろう。では何を運んだのか。
 その重要な「交易品」のひとつが、山を越えた噴火湾側の南茅部町で見つかっている。豊崎N遺跡と磨光B遺跡から、アスファルトの大きな固まりが出土したのである。



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