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  根元 縄文造形家・猪風来の精神 記憶回路

 縄文造形家猪風来は、1947年、村上信義として広島県に生まれ、高校卒業後上京、武蔵野美術短期大学油絵科を卒業し、シュールレアリズム、ダダイズムなどを指向する洋画家となった。
 若く名もない画家村上信義が、縄文造形家猪風来と名乗るようになったきっかけは、千葉の山中で拾った土器片であったという。

   「あの頃は、食えないアーティストだった。
 食えないアーティスト。
 挫折感もあったし、人生に絶望もしていた。人間嫌い状態だったんだね。
 そんな中で、自然だけが自分を癒してくれた。
 自然を求めて、山を歩き、散歩をしていたら、足下に何か土器片があった。
 掘り出してみると縄文の土器だった。
 手にとって見ていると不思議な胸の高鳴りがしてきたんです。
 ピカソやゴッホなどの西洋画に感動して、油絵を始めたんだけれど、それらは外的な感動だった。結局自分にとって、外からやってくる感動にすぎなかったんです。
 しかし、土器片を見ながら、どきどき、わくわくした感動は内的な感動。自分のどこかの記憶回路を刺激する内から突き動かす感動でした。
 自分を突き動かす、わけのわからない感動、それがどこから来るのか。感動しているんだけれど、しかし、その感動の所在がわからない。
 それを探求しているうちに、古代に対する、人類史的過去に対する興味が高まっていった」。
猪風来

  縄文,土器
虚空へ 野焼き土偶 1996
 石器時代から縄文時代、そして弥生時代、古墳時代へと続く発達史観の中では、縄文は弥生の未発達なもの、野蛮で劣るものと思われてきた。
 縄文文化に独自の美を発見した最初の日本人は岡本太郎だった。
 1951年、 岡本は、たまたま立ち寄った東京国立博物館の考古学のコーナーで縄文土器に出会う。このとき「血の中に力がわき起こるのを覚えた」という。1952年、美術雑誌「みづゑ」に「縄文土器論」を発表し、縄文の美的価値を訴えた。これに刺激され梅原猛などが、学者の立場から研究を進め、縄文文化の独自な価値を明らかにしていった。
 それでも後に猪風来と名乗る画家村上信義が、縄文土器に出合った1976年前後、まだ縄文土器の制作手法は解明されていなかった。創作の手がかりを求めて「ひたすら土器とにらめっこ」する時代が続いた。
 ふとした出会いから、同じ千葉県四日市市の加曽利貝塚博物館に、縄文土器の復元を目指すグループがいることを知り、そことの交流、技法交換を通じて、少しずつ縄文の土器を復元していった。
 猪風来の創作は、縄文時代とまったく変わらない野焼きである。
 野天のたき火の中で作品を焼き上げる野焼きは、陶芸の窯のようなコントロールが効かず、歩留まりを引き上げるのが極めて難しい。そうした中で、猪風来は陶窯を超える歩留まりを実現するという。
 「野焼きに関しては、わしは日本一でしょう」と断言する。
 しかし画家村上信義が縄文造形家猪風来になるためには、さらにもう一つの出会いが必要であった。

 

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