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  縄文への旅立ち 野村崇
北の縄文 断想
はじての遺跡発掘-焼尻島の遺跡
発掘,遺跡,北海道 わたしが、はじめて遺跡発掘を経験したのは、今から半世紀近くも前の1954年夏のことである。当時、わたしは札幌西高校の2年生で、郷土研究部という歴史を調べるクラブに属していた。この部は、戦後すぐの旧制中学校時代に設立された古い伝統をもつ部で、毎年の夏休みには、遠征と称して、全道各地を発掘していた。顧問の先生はブンゴリ(文化ゴリラの略称)とあだ名のある奥野清介先生であった。2ヵ月後に、あの洞爺丸台風が本道を襲い、大惨事をもたらすことになった、その年の夏の天候は不順な日が多く、最初の天売島での擦文住居跡の発掘も雨にたたられ通しであった。続いて行われた焼尻島白浜の発掘は、日本海を見降す崖うえに小トレンチを設け、崖を崩すように上から下に掘った。上層からは、続縄文時代や縄文晩期の土器片が出て、下層からは縄文中期の土器片が出た。この時はじめて、地層は下の方から上の方に積み重なり、下層から出る土器が上層出土の土器よりも古いということを知った。
 いま思えば、この最下層の土器は、縄文中期文化の末期(約4000年前)のもので、今をときめく青森市の三内丸山遺跡や道南、南茅部町の大船C遺跡など津軽海峡圏に栄えた円筒土器文化の系譜に連なる文化のものなのである。
 円筒土器文化(約5500年〜4000年前)を担った人たちは、津軽海峡周辺で大きな遺跡を残したあと、日本海岸に沿って北上し、奥尻島青苗遺跡、江差町茂尻遺跡、岩内町東山遺跡と北の路をたどる。
 そのあと小樽市の手宮公園下遺跡などを経て、焼尻島の焼尻1遺跡に至るのである。円筒土器文化のなれのはてとも言うべき土器を高校2年生の時に掘ったのが、私の縄文発掘ことはじめだった。
 もうひとつ、この遺跡で勉強したことがあった。それは、遺跡を掘ったらかならず報告書を作るということである。土器が何たるものであるかも知らず、ほとんどが奥野先生の口うつしのようなレポートであったが、「天売焼尻島遺跡出土器について」という文章を『郷土の今昔』(7号.1950年)というガリ版印刷の部誌に報告した。いま見れば内容もつたなく、間違いも多かったが、後にこれらのコレクションが北海道開拓記念館に移管される際には、大変に役に立った。昨今の発掘して報告書もなく、年代だけが最古を更新していった前・中期旧石器ねつ造事件を思うにつけ、私の考古学人生最初の師の恩をありがたく思うのである。

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