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  北の縄文 断想 縄文,遺跡,イメージ
 
縄文への旅立ち 野村崇





縄文,年表
人生には忘れ難い出会いがあるように、長年考古学に携わった私にとっても、生涯の記憶にのこる遺跡がいくつかある。そのいずれもが、北の大地北海道に開花した縄文文化の遺跡である。
 高校生のとき初めて発掘した遺跡、新型式の土器を見つけた遺跡、5カ年ものあいだ発掘に通った遺跡、旅の行きづりに寄って、忘れられない人と逢った遺跡など、縄文遺跡をめぐる心象風景の旅はつきることがない。
 縄文遺跡の探訪に出かける前に、最少限度の必要な知識を仕入れておこう。
縄文,遺跡,イメージ まず最初に、「縄文」とはなにか。今では小学校の教科書にも出てくるので、おおかたの人は知っているであろうが、縄目文様のことで、この文様がついた土器を縄文土器と呼び、その時代を縄文時代と呼ぶのである。縄文土器は、日本列島に土器がつくられはじめた12,000年ほど前から、2,000年ほど前までの1万年間、北は北海道から南は九州、沖縄まで広がっていた。あまりにも広い範囲で、長い時間の中で使われた地域や時代によっては、かならずしも縄文だけが使われたわけではない。貝殻のへりを押しつけたり、条痕文、隆線文、無文なども多く用いられた。しかし、おおまかに見れば縄文が基調だった。縄文土器が使われたのが、1万年もの長期間なので、本州では草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に分けており、北海道では、草創期がはっきりせず早〜晩期までの5期区分法をとっている。
 縄文文化は、縄文土器、それに打製・磨製の石器を使用し、弓矢とイヌ、銛と丸木舟で狩猟や漁撈を行ない、漆などの高度な技術をもち、竪穴住居に住むといった文化であった。
 ところが、紀元前4世紀ごろ、大陸から朝鮮半島を経て稲作栽培と鉄など金属器製作技術をもった人々が北九州にやってきた。弥生文化の成立である。稲作や鉄、青銅などの利器、布を織る技術などを持つ文化は、その後5、600年の間に列島を駆け抜け、津軽半島まで達する。
 ところが、元来、熱帯の作物である稲の栽培は、津軽海峡を渡ることができず、北海道は前時代から続いた狩猟、漁撈、採集を主とした生活が続いた。もともと山海の食料資源が豊富な本道では、米は必要としなかったとも考えられる。ただ、鉄器などの金属利器は弥生文化圏からとり入れた。この特色ある時代を続縄文時代、続縄文文化と呼んでいる。
 続縄文時代の中頃、サハリンから北海道オホーツク沿岸に、もうひとつ別の大陸系文化を担った集団がやってきた。オホーツク文化である。大型の住居に住み、アザラシ、オットセイ、クジラなどの海獣狩猟を主な生業とした。アムール川沿岸とつながりをもつこの文化は、やがて次の擦文文化に吸集される。
縄文,遺跡,イメージ 本州の古墳時代の終末から奈良・平安時代にかけての東日本の強い文化的影響を受けて擦文文化が成立する。擦文の由来は土器のハケ目による調整痕―擦文による。方形でカマド付の住居、伸展葬の墓、鎌、鍬、刀、刀子などの鉄製品をもち、ソバ、オオムギ、アワキビなどを栽培し、擦痕文、刻文のつけられた土器、それに魚止め施設などでサケを捕る在来的特色をもつ文化で、おそらくは13世紀初頭まで続いた。そして、この文化を母胎として、中・近世にいたるアイヌ文化が成立し展開するのである。

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