| 『よるバナ』(※2)は、筋ジストロフィー症で重い障害を抱えた鹿野靖明氏と、その周囲に集まったボランティアの物語である。描かれているのは、どこにでもいる「ごく普通の人々」だ。
「福祉やボランティアに全く興味がなかった」と渡辺さんはいう。
最初は編集者から「書かないか」と持ちかけられたテーマだった。正直なところあまり乗り気ではなかった。
そのままではよくある障害者とボランティアの心温まるストーリーになってしまう。どうしたら、自分の納得のいく本が書けるだろう。答えが見えないまま、編集者が持ってきた「介助ノート」を何度も読み返した。
介助ノートとは、24時間交替で鹿野氏に付き添うボランティアの「引き継ぎノート」で、その日の様子や気がついたことなどが自由に書いてある。さまざまな悩みと日常を抱えた若者の言葉が綴られ、いらだちや不満もあり、イタズラ書きもあり、自分への反省もあり、反問もある。
それにしても、優秀なボランティアを自分の「秘書」と呼び、新人ボランティアたちには「研修」をほどこす「教師」となる。そうやって鹿野は、自分にふりかかる境
遇を、すべて能動的に解釈しなおしていく。そうしたたぐいまれなあつかましさがあった。
この家は確かに「戦場」だった。
しかし、それは鹿野が病気と闘っているから、というだけではないと私は思う。
確かに病気とは闘っている。在宅医療・福祉の制度充実を求めて、闘ってもいる。
しかし、鹿野が何より闘っているのは、マイナスカードの多すぎる人生を、あくまで主体的に能動的に生ききろうとする果てなき闘いであると私は思うのだ。(本文より)
深夜にバナナがほしいとボランティアをたたき起こす鹿野氏。新人ボランティアに「帰れ!」と怒鳴る鹿野氏。
そんな「支配的」な障害者とつきあい、彼らはなぜボランティアを続けるのか。
渡辺さんは、自分もボランティアとしてローテーションに加わり、タンの吸引や体位交替、鹿野氏の身体につながるたくさんの機械の調整を少しずつ覚えながら、ボランティアたちの取材を進めていった。実にゆっくりと、深く。
そのうちに、渡辺さんは「聖人君子の障害者と優しいボランティア」という型通りのものなど存在しないことを身をもって実感し、理解しはじめる。
本に登場するボランティアは全部で20人以上にものぼり、それぞれボランティアをはじめたきっかけも、それを続ける理由もちがう。「生きる意味がほしい」と感じていた者、マージャン三昧の毎日のなかで、ふと「オレ、何してるんだろう」と不安になった者、一見順調に教師の勉強をしながら「どうもバランスが悪いんです」とため息をつく者。
「今は健常者だって生きるのがタイヘンだから」と鹿野もいっていたが、タイヘンなのは障害者だけでなく、健常者であるボランティアもまた、彼らなりのタイヘンな現実を生きている、というごく当たり前の事実に、私はようやく気づき始めていた。(本文より)
ボランティアは、鹿野氏のなかに自分の一部を置いていたのではないか。託していたというのともちがう、自分を置くという感覚。鹿野のなかにいる自分、自分のなかにいる鹿野。死に向かいながら、その恐怖とたたかい、生を思いっきり生きる存在。それは特別でもなんでもない、普通の人間の姿なのだととらえたとき、渡辺さんの本は、九分通り完成したのだと思う。
鹿野氏は、本の完成を見届けることなく2002年8月に亡くなった。
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