HOME > 連載【となりの北海道人】『私のお父さん』第14回

連載【となりの北海道人】『私のお父さん』

第14回

*話すこともあまりなく、聞くことも少ないお父さんの話。でも、お父さんにまつわる話はおもしろいんです。

■093『お手本にしている、と思う』

生沼貴史さん(20)=大学生、札幌市出身、札幌市在住

 ―いつもメジャーを持ち歩いているそうですね。
 建築を勉強していて、階段の蹴上げや踏み板、窓、手すり……気になったものは、すぐ測ります。幼稚園にしろ病院にしろ造りが全然違っていて、今の僕には、どこまで違いに気づけるかってことが大事だと思うんです。この建物はここに必要なのか、こういうのがあった方がいいんじゃないかとか考えたりもし、ずっと札幌に住んでいながら札幌を見ていなかったことにも気づきました。
 ―建築に興味を持ったきっかけは。
 小学生のころ、父が製図をしているのを見て面白そうだったから。専門課程に入って初めて製図したのを父に見せたら、「まだまだだな」と言われました。
 ―ご自身にとって、お父さんはどのような存在ですか。
 うーん。学生の今はまだないけど、働くようになって家庭を持ったら「父ちゃんだったら、どうするだろう」って考える場面が出てくると思います。無意識のうちに、父を自分のお手本にしている気がするから。

(道産ヨネ)

■094『「最後までやり通せ」と父』

山崎恵喜さん(51)=速記者、札幌市出身、札幌市在住

 ―その、紙に書いてある変な字が、速記で書いた『私のお父さん』…。
 参議院式の速記符号で書くと、こうなります。ほかにも衆議院式とか早稲田式とか、いくつか流派があるんですけど、同じ流派の速記士がまったく同じ符号を書くとは限らないんです。基本的には、自分が読めれば問題ない。みんな独自に符号つくったりしてますよ。「困る」を「。(小マル)」とか。
 ―特殊な技術なんですね。仕事の上で大変なところは?
 言葉は生き物だから、常に勉強。文字にする時は細かいニュアンスも忠実に残さなきゃいけないし、話す人それぞれにいろんな特徴がありますからね。
 ―その仕事を目指したのが、高校を出てすぐ。お父さんは何と?
 なんにも。ただ「やりたいことは、自分の責任で最後までやり通せ」とは言われました。ずっと放任主義だった親爺の、貴重なひと言。ふたりで飲んでも速記の話なんか全然しなかったけど、その言葉だけは忘れられないですね。

(小笠原 淳)

■095『気づけば、父と同じことを』

吉田三千代さん(58)=NPO法人理事、東京都杉並区出身、札幌市在住

 ―今、国内の車椅子を修理してアジア諸国などに贈るNPO(「飛んでけ! 車いす」の会)で活動を。何でも、お父さんのかつての仕事に似ているとか。
 「車椅子」と「アジア」っていう2つの接点があったんですよ。父は今でいう“国際公務員”のような仕事をしてました。「アジア生産性機構」という組織の、初代事務総長。お正月なんかにアジア諸国の皆さんが実家に遊びに来たりしてたので、私もそのころからアジアの人たちに縁があったんです。
 ―もうひとつの「車椅子」繋がりというのは。
 父の通ってた教会が、身体の不自由な人たちの施設を運営してたんです。父がそこの理事長も任されてた関係で、よく車椅子の人たちが自宅に来てました。バリアフリーなんて全然ない時代で、車椅子を降りた人が階段を這って上る光景とかを憶えてます。のちに自分で車椅子のあれこれをやるようになったのは、ほんとに偶然。気づいたら父と同じことやってるな、って感じですね。

(小笠原 淳)

■096『忙しくても見ていてくれた』

青山悟さん(33)=会社員、苫小牧市出身、札幌市在住

 ―お父さんは銀行にお勤めだったんですね。
 銀行で融資を担当していました。高度成長期、バブル期と、父はずっと忙しく、帰宅はいつも夜中の1時、2時でしたね。一緒に出かけた記憶がほとんどないんです。あー、小学校2年の時だったかな、職場の人たちと一緒に小樽の蘭島海岸に行ったことがあったっけ。
 ―お父さんと過ごす時間が少なかったのですね。
 ええ、でも父と二人暮らしをしたことがあります。深川から札幌への転勤を機に、私は札幌の高校に編入し、母は深川、姉は旭川に…。その頃も父は多忙でしたが、私のことを見ていてくれた気がします。
 ―どんなところでそれを感じましたか。
 食事の後はいつも皿を台所に放置していたんですが、それがないときには、「食べたのか」と必ず聞かれましたから。
 ―似ているところはありますか。
 お菓子好きなところですか。父はせんべいで私はチョコレート。お菓子を買ってきて、「これうまいぞ」って勧めたりするんですよね。

(杉本真沙彌)

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