HOME > 連載【となりの北海道人】『私のお父さん』第2回

連載【となりの北海道人】『私のお父さん』

第2回

*話すこともあまりなく、聞くことも少ないお父さんの話。でも、お父さんにまつわる話はおもしろいんです。

■010

本間清子さん(29)=会社員、後志管内寿都町出身、後志管内寿都町在住

 ―お父さんは、どんな人ですか。
 真っ先に思い浮かぶのは、お酒を飲んでるところ。私が帰宅するころは、母の作った刺し身で晩酌しているか、時にはもう寝てしまってます。
 ―最近、会話はありますか。
 あまりないですね。父はもともと、しゃべる方じゃないんです。でも、家族のことを思ってくれているのは、わかります。例えば、お酒を買いに行って帰ってくると、袋の中には母や私が好きそうなお菓子やパンも入っていて、「買ってきたから食べてみれ」って、ぼそっと言うんです。
 ―お父さんの職業は。
 大工の棟梁で建設会社に勤めています。この間、タイヤ交換するとき、ひょいと持って手伝ってくれたんですけど、力はあるし、コツを心得てるし、「さすが」と思いました。家で現場の図面を広げているところも父らしい姿ですね。

(道産ヨネ)

■011

大須賀るえ子さん(66)=アイヌ語講師、胆振管内白老町出身、胆振管内白老町在住

 ―お爺さんが、有名なイソンクル(鉄砲の名人)だったそうですが
 宮本イカシマトクといえば、白老のコタン(集落)の指導者として知られた人です。父はその次男で、一時期鵡川(現・日高管内むかわ町)に暮らしてから昭 和40年に白老に戻りました。そのころ、道庁などの意向で昔のコタンが閉鎖されたんですが、みんなそこからなかなか離れようとせず、今のコタン(ポロトコ タン)に人が居つかなかった。そこで父に「酋長さん、なんとか来てくれ」って声が掛かって、博物館の解説員を16年間務めることになりました。
 ―お父さんも、多くの人たちに慕われる人だったんですね。
 よく、川に近所の子供たち集めてゴリ(川魚)を追わせ、父が捕まえてはみんなにふるまってましたね。お酒を飲むといたずら好きになって、温泉の女湯を覗 いたり、娘さんに「肩もんでやる」と言って胸を触ったり…。それで私、いつも「あんたのお父さんは!」って責められてました。でも、亡くなったらみんなほ んとに寂しがって。懐かしそうに「あのころは楽しかったねえ」って何度も言われたもんですよ。

 

(小笠原淳)

■012

竹内大輔さん(32)=ゲーム開発ディレクター、釧路市出身、札幌市在住

 ―子どものころ、お父様に遊んでもらったことがありますか?
 父は車関係の会社を経営していたので、休みはお正月の1日のみでした。小さい頃に一緒に遊んでもらったり、どこかに連れていってもらったという記憶はほとんどないんです。ガキの頃は話をしたこと自体、あまりなかったですね。
 ―今でも関係は希薄なんですか?
 僕が20歳の時に父の会社が倒産して、自動車解体業を父ひとりで始めたんです。当時、僕が学生だったこともあり手伝いをしながら何てことはない話をよく して。その時に「こういう人だったんだ」と父の輪郭をつかめたのかな。すごくいい奴なんですよ、親父。苦労したはずなのに上から物を言わないし、押し付けがましくないし。それでいて廃車にしたブルドーザーを拾ってきて修理しちゃうほど車については何でもできる。“自慢の友達”という感覚かなぁ。だから、ふと思いたって「元気?」って携帯から電話するような関係です、今は。

(楢戸ひかる)

■013

狹間理子さん(13)=中学生、東京都江戸川区出身、石狩市在住

 ―お父さんは、どんな人ですか。
 チョコパンとか食べてると、「ちょっとちょうだい」と言って、ものすごくたくさん取っていくんです。お母さんやお兄ちゃんには、あまりしないのに…。なぜか私の食べてるものを欲しがり、いつもバトルになります。
 ―「ケンカするほど仲が良い」といいますよ。
 休日によく二人で本屋さんに行くんですけど、行き帰りの車の中で今好きなアーティストのこととか、いろんな話をします。そんなときは仲良しかも。
 ―最近、「お父さん、ありがとう」と思ったはことは。
 いっぱいあります。成績が上がったとき、「よく頑張ったなぁ」とほめてくれ、欲しかったゲームソフトをプレゼントしてくれました。うれしくて、ちょっとの間、夢中になってたら、お父さんは「失敗したかな」って苦笑いしてました。私の好きなものをちゃんと覚えていてくれ、プレゼントしてくれたのだから、ゲームも楽しむけれど、勉強も頑張っています。

(道産ヨネ)

■014

横田昌樹さん(63)=遊びのスガイ常勤監査役、旧満州国扎蘭屯(ジャラントン)出身、札幌市在住

 ―お父さんは、どんな人ですか。
 満州国の参事官で、戦争終わってソ連に抑留され、タシケントで死んだと聞いている。俺は3歳のときにおふくろに連れられて満州から引き揚げてきたから、おやじそのものの記憶はないんだ。けれど、おふくろ、満州まで迎えに来てくれたおふくろの両親、おやじの兄さん、おやじが出た大同学院(満州国政府の官吏養成機関)の同窓生など、いろんな人が話して聞かせてくれたので、おやじの影のようなものは実感できる。おやじは豪快で面倒見がよく、周囲に気配りのできる人だったらしい。写真を見るとまぎれもなく、この顏なんだ。
 ―お父さん似ですか。
 92歳のおふくろも同じ顏している。夫婦は年がいくにつけ似てくるだろ。おふくろは教師をして俺を育て、再婚しないでずっときたわけだから、おやじよりも、おふくろの方が父親みたいな感覚だな。「お母さんを悲しませるようなことするんじゃないよ」。ばあさんの言葉が今もにらみを利かしてるんだよ。

(道産ヨネ)

■015

大谷純子さん(26)=ホテル従業員、砂川市出身、夕張市在住

 ―林業ひと筋のお父さんだそうですね
 昔は違ったみたいなんですが、家の会社を継ぐことになってからはずっと林業ですね。今はその親会社に勤めて、現場監督をやってます。
 ―お母さんとの仲はいい方ですか。
 いいですよー。3年前に自宅を新築したんですが、その時にしみじみ言ってました。「こやって家建てたり、子供3人学校出したり、お母さんいなかったら絶対できなかったなー」って。パチスロが好きでよく行くんですけど、深みにハマるほど勝負しないのは、家計やり繰りしてるお母さんのこと気になるからなんで しょうね。お母さん本人は全然なんにも言わないんですけど。
 ―お父さん、何してる時が一番楽しそうですか。
 山でブドウやらキノコやら採ってくるのが楽しいみたい。あと、お酒も毎晩飲みますね。新築の時に70万円ぐらいする薪ストーブ買って、すごく大事にしてるんです。そこで毎晩お酒飲んで、「ここ、お父さんの領域だからな」だって。

(小笠原淳)

■016

早川夕果さん(34)=公証役場勤務、後志管内泊村出身、札幌市在住

 ―お父さんはどんなお仕事をなさってたんですか。
 郵便局員でしたが、祖母(父の実母)が透析に通うことになり、その送迎のために58歳で早期退職をしました。以来、ピアノを習うなど、趣味を楽しんでいるようです。父の初孫である私の長男には毎日絵手紙を送ってくれてます。
 ―お母様のために早期退職をされたんですか。
 あの世代には珍しく、昔からずっと父は“家族がいちばん大切”という価値観の人です。だから我が家は朝食はもちろん夕食も、祖父母・両親・私と弟が揃って食卓につき「いただきます」と言って食べ始める、そんな家庭でした。
 ―食事のときはどんな会話をしていたんですか。
 それが、政治の話を延々と(笑)。父が政治好きで、その影響か私も小学生の頃から選挙速報にかじりついているような子だった。食卓で議論しているのは父と私でしたね。だから、今読んでいる本が松本清張の「昭和史発掘」だったり……、中身が“オヤジ”なのかなぁ。

(楢戸ひかる)

■017

山田そらさん(6)=保育園児、札幌市出身、札幌市在住

 ―パパと何をしてる時が嬉しいの。
 公園に一緒に行ってブランコをしたり、(パーク)ゴルフをしてる時。パパはいつもすごく優しい。ひろき(兄)はパパによく怒られているけど、そらは1回怒られて泣いたことあるだけ。あと朝、保育園にパパと一緒に来ている。
 ―保育園に連れて行ってくれるのは、パパなんだ?
 うん。バス停まで競争したり、走ったりしてバスに乗るの。バスの中では座れるから、ちょうあいこ(ジャンケン遊び)したり、絵を書いてくれる。紙はパパ がいつも持っているの。そらよりパパの方が絵が上手で、「バラの絵を描いて」って言ったら書いてくれる。そらはちょっとしかバラ描けないからね。
(突然)明日もっと色々考えてくるから、今日はここまでね。(と言って友達の輪の方に走り去る。どうやらお気に入りの仲間同士で遊びが始まったようだ)

(楢戸ひかる)

■018

阿部文子さん(56)=会社員、後志管内寿都町出身、後志管内寿都町在住

 ―お父さんは、どんな人ですか。
 温厚な人でした。私は4人きょうだいですけど、誰一人、叱られたことも手を上げられたこともありません。誰に対しても本当に優しかったです。
 ―お父さんの職業は。
 父は新潟の生まれで、子どものころ奉公に行った先が印刷屋さん。戦後、一時期、寿都の造船所で働いていましたが、印刷の仕事を求めて、私が小学校に上がる前の年ぐらいから単身で札幌に出て定年まで勤めました。家に帰ってくるのは、年に3、4回。私は末っ子で甘えん坊だったから、薪ストーブの扉の前で、あぐらをかいている父の懐に、いつもちょこんと入ってましたね。
 ―定年後は、どのように過ごされたのですか。
 寿都に戻り、老人クラブの活動に熱心でした。写真が得意で、中学校の卒業記念アルバムづくりにもボランティアで協力していました。孫と同世代の子どもたちが「ゲンさん」と呼んで慕ってくれ、それも励みになっていたようです。

 

(道産ヨネ)

このページの先頭へ