第12回 宗谷海峡を渡った人々

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宗谷海峡塾

第12回 宗谷海峡を渡った人々

宗谷海峡塾 2010.11.18

平成の松浦武四郎

 松浦武四郎(文政元年〈1818〉~明治21年〈1888〉)は、伊勢の国一志郡須川村(現・三重県松阪市)に生まれ、若年より諸国を遍歴した後、蝦夷地(現・北海道)を6回訪れ、アイヌの人たちの協力を得て、山川取り調べ(地勢調査)を行い、後に東西蝦夷山川取調図(北海道地図)を完成している。
 弘化3年(1846)・安政3年(1856)及び、安政5年(1858)には、宗谷地域を訪れ、東浦・宗谷・声問・恵北・抜海に宿泊し、『古以登以日誌』『北岬日誌』等を記し、弘化3年・安政3年には、宗谷より北蝦夷(樺太、現・サハリン)へも足を伸ばし、弘化3年には利尻、礼文にも足跡を残している。
 東西蝦夷山川取調べを行い、原住民であるアイヌの人たちの生活や、蝦夷地の状況などを詳細に調査し、克明な記録を幕府に提出また出版するなどして、蝦夷の実態を明らかにしながら、アイヌの人たちの生活向上に心を砕き、幕閣へも再三改善への提言を行った。 明治政府の北海道判官として奉職、北海道の夜明けに貢献し、自ら「北海道人」と号した。
 武四郎は、蝦夷地改称に際して「北加伊道」など6つの呼称を提案、そのうち北加伊道が北海道の文字を当てて採用された。
 武四郎に先立つ50~60年前には、宗谷から北蝦夷(樺太)に間宮林蔵など、幾多の人々が渡海している。
 また明治以後は、林芙美子や菊地寛、北原白秋、齋藤茂吉、宮沢賢治など文人墨客が多数宗谷海峡を渡っている。
 賢治は函館から北海道に入り、旭川を通って稚内に来て、そこから、稚内と大泊(現・コルサコフ)を結ぶ稚泊連絡船で樺太へと渡った。その目的は、教諭をしていた岩手の花巻農学校の生徒の就職を、豊原(ユジノ・サハリンスク)の製紙工場まで依頼しに行くためだったが、同時に、前年亡くなった妹トシを悼む傷心旅行でもあった。
 斉藤茂吉は、昭和7年8月、弟の高橋四郎兵衛とともに兄富太郎を中川に訪ね,十数年ぶりに兄弟の再会を果たした。この後茂吉は稚内を経て樺太まで足を伸ばしている。
 菊池寛が樺太に渡る際に、係員から名前を尋ねられ「キクチ・カン」と答えると、「クチキカン」と聞き違った係員に、「口利かんとは何事だ」と、咎められたというエピソードが残っている。
 現在は夏季の間、稚内~コルサコフ間を大型フェリーが定期航行している。5時間30分の船旅である。ちなみに船内は無税のため缶ビールは100円、ジュース類は120円である。
 先人に思いを馳せ、宗谷海峡を渡ってみてはいかがですか。

石井栄三 (いしい・えいぞう)

宗谷海峡塾副委員長、1948年群馬県生まれ、1998年稚内市に移住。「週刊・市民の声」編集・発行人

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