「太一」がボクらの運命「PAI」ロット

「太一」がボクらの運命「PAI」ロット

vol.1

2010.04

「太一」がボクらの運命「PAI」ロット

とろんの「右巻きアートエッセイ」 プロフィール

変身しつづける太一くん(3歳8カ月)

 ボクがこの世に産まれ出たのは、瀬戸内海に面した岡山県倉敷市の水島という、名もない小さな港町の一角だ。幼少のころの曖昧な記憶の中、真透明で静かな海に沢山の魚たちが見える小さな港で、大人や子どもたちが長閑に釣りをしていたり、どこまでつづくのかと心配するほどの遠浅の海岸一面で、沢山の家族が真っ赤に日焼けしながら潮干狩りをしていたり、そんな、ほっとしてしまう1950年代の風景ばかりが浮かび上がってくる。
 そして気が付いてみると、名もない小さな港町「水島」は、いつだれが決めたのか、日本有数の臨海工業地帯へと拡大変貌していて、会社群にむらがる雑多な沢山の労働者たちが集まる有名な新興の町になっていて、あの真透明だった小さな港から魚たちは消え、釣りをする人影も無くなり、あさりやしじみたちの住む遠浅の海岸はア!!っという間に埋め立てられ、工場群が立ち並び、「モダンタイム」風景へと変貌してゆく、1960年代後半。
 そんな高度急成長時代の左巻きの渦中、1969年の春、18歳のボクはフランスの貨客船に乗って日本を脱出し、ボクの内奥から湧き出る渦、右巻きのイノチの渦を巻きはじめたのだ。すでに高校時代の3年間も、学校を勝手に長期間休んでは日本中をぶらぶらと旅していたのだから、この内奥から湧き出てくる強いイノチの渦というのは、教育以前に先天的にボクに植え付けられた「業」みたいなものだろうか??? 学業やクラブ活動や級友などというものには全く関心が無くって、下校したらスグ「山田サイクル」という自転車屋さんに直行し、時給100円のアルバイトをしていて、朝も4時には起きて重い実用車で牛乳配達をして旅の資金を稼ぎながら「日本脱出」のための体力作りをしていたものだ。
 そんな中、癌細胞のように異常な変貌をしてゆく「水島」の町に比べて、高校の在った「倉敷」の街のスピードはゆったりとしていて、その中心的不動存在が「大原美術館」風景じゃないか??? とボクは子ども心に強く確信していたものだ。工場群の放つ色のついた煙で名産だったイグサが育たなくなり、まともに呼吸できぬ小さな町のアチコチに狂ったようにバーやスナックが乱立しはじめ、ついに、ボクの育った実家の隣にも深夜まで喧しいスナックができてしまった。そしてボクが20代の半ば、父母はついに家を売り、逃げ出すように、静かで空気もキレイな高梁川沿いの総社の町に移ってきた。もう、35年も前のことだ。
 20世紀後半中、絶え間なく旅をし、ずっと親不孝を重ねてきたボクは、21世紀に入ってから「この先両親が生きてる限り、年末年始は親とともに過ごそう!!!」と何故だか心に決め、それからは毎年の帰省ごとに、倉敷の街を好んで歩くようになっていた。ある日、はじめて入った「大原美術館」の中に「児島虎次郎」という人の絵を発見したとき、あ!!っと、鳥肌が立ったのをよく覚えている。ボクと「児島虎次郎」が出会った瞬間だ。

 水島、倉敷、総社、と瀬戸内海から中国山脈にむかって北上してゆくのだけど、総社から美しい「高梁川」に沿ってさらに北上してゆくと、成羽町という山中の小さな町が在り、児島虎次郎はそこで産まれ育ち、彼の作品群を沢山保存している「成羽美術館」が在る。児島虎次郎は21歳から大原孫三郎(大原美術館の創設者で、天才的実業家)から全面的援助を受けはじめ、「見事な援助の仕方でもあるが、あっぱれな世話のなりっぷりだ」と人々に言わせるほど、その生涯は経済的に一切煩うことなく、絵の道を純粋一筋に生きた人で、「自分の畑を決めた以上は自分の畑で汗を流して働けばよい」「天地の呼吸に接して、天地の大いなる力に触れたならば、この小さき人生の何たるかを理解することができよう」そして、「人として真に美しき働きは、その人の真なる生命のままを示したものだ」と肝に命じ、スポンサーの大原氏に何の遠慮もしないで「愛とお金は天下の回りもの♪」を体現した稀人でもある。
 この3月8日の夜、何故だかやたらと「児島虎次郎」をもっと知りたい!!! という衝動が高まり、翌日、たまたま必然、季節外れの大雪が降ったので全ての予定をキャンセルして、近くの総社市立図書館を訪ね、はじめて本を借りた。彼の伝記が2冊出版されていたのだ。「絵」だけで物足りなくなったボクが「言葉」による「児島虎次郎探索」をはじめた記念すべき日、だ。
 読み進めて、は!!!っとしてしまった。ボクの彼への好奇心が高まりきった昨日は、たまたま必然、彼の81回忌だったのだ。そして、2冊目の新しい伝記の作り手が、彼の孫の「児島塊太郎」氏で、ボクの住む町、総社で焼き物をしていることが判明し、文章から彼の窯の在り処を割り出してみたら、ボクがよく通っている温泉「サンロード吉備路」に隣接している見慣れたレンガ造りの窯で、たまたま必然、ボクがずっと気になっていた風景存在で、いつかは見学に行こうと思っていた要チェック処だったのだ。
 近々、このずっと気になっていた窯を訪ねて虎次郎の孫と出会うのは必至。そして、来る4月3日は彼の誕生日で、その日、たまたま必然、彼の産まれた成羽町に用事があるので、美術館に行って彼の絵群に再会するのも必至。
 ボクの「あまりにもみだらなまでの自由感」に拍車をかけるようなハプニングが次々と起きてくる日々。このひとつひとつの「たまたま必然」のハプニング、「奇跡の連鎖」こそが、きっと、ボクのこれからの進行方向を示してくれる方向舵なのだろう。そしてなによりも「PAI」で産まれた我がままし放題の「太一」こそが、ボクらの運命の「PAI」ロットで、ボクらは、ただ彼が喜び元気になる状況づくりをしてゆくだけで、きっと、ボクらもひとりでに、おもしろくっておかしくってHAPPYになれるんじゃないかなあ。


 右巻きとろんより。

プロフィール

とろん
1969年高校卒業直後、フランス郵船に乗ってインドに上陸し地球放浪をはじめる。帰国後、専門学校、大学、夫などを中退しながらも、旅と文筆とライブ活動を続行。50歳(2001年)からタイ北部の山間の町「PAI」にベースを移し、村創りをはじめる。現在、2012年12月から108日間の祭り(たましいのかくじっけん)第2弾を想定しながら、桃源郷「NEW MOON VILLAGE」を創作中。著書に『純粋単細胞的思考』『まるだしのエクスタシー』『とろんのダイジョーぶ経典(スートラ)』(共に、晩聲社)がある。
・とろんのホームページ

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