ジャスミン

 「携帯電話のメールで『茉莉花(ジャスミン)革命』と打つと相手に届かないらしいよ」「検索エンジンで『中国茉莉花革命』を検索すると結果が表示されないんだって」。上海在住日本人の間でそんなウワサが流れ、「試してみたよ」「本当だった」なんて会話が交わされていたのがつい10日前。私も行き場のない「ジャスミン」の文字が空に浮遊する光景を想像しつつ、内心では「さすがに上海はこれ以上の騒ぎにはならないだろう」などとタカをくくっていたのだが、2月27日に人民広場で民主化を求めるこの集会がまた行なわれると日本のニュースで知って、あわてて家を出た。
 いちばん最初に中国でこの集会を呼びかけた人間がいったいだれなのかは現在もわかっていないそうだが、きっと本人も中国に飛び火するとは本気で思っていなかったことだろう。この日、北京やウルムチなど中国の20都市以上で厳戒態勢が取られ、上海でも1000人以上の警官が配備されるという事態となった。集合場所とされた人民広場の映画館は前日から閉鎖され、最寄地下鉄駅のいくつかの出入口も「メンテナンス」のため封鎖されていた。
 しかしこの日、数百人のやじ馬の一人としては肩透かしをくらったというのが正直なところである。そこにあったのは民主化を叫ぶ若者の姿でもなく、積もりに積もった不満の爆発でもなく、警察との緊迫したにらみあいでもなく、どこか間の抜けた不気味な空気だったからだ。
 「これは無言・無行為のデモなのだ」とやじ馬の一人は誇らしそうに言う。たしかに場を仕切る人はどこにも見当たらなかった。垂れ幕もなければ、スローガンも叫ばれていない。呼びかけに応じて集まった人、やじ馬、通行人、マスコミなど数百人がただキョロキョロと互いの顔を見合わせ、事態がつかめず困惑中といった感じだ。ちなみに集会の情報は中国版ツイッター「微博」で広まったと聞いていたので、来るのはてっきり若者が中心かと思っていたが、意外にもお年寄りがかなりの比率を占めていた。わが姑も友人から「今日だけは人民広場に近づくな」と警告があったといい、口コミは原始的方法のようで決してあなどれないもののようだ。そんな情報通のおじいちゃん・おばあちゃんたちは、警官たちが群衆を解散させるために笛を吹き鳴らそうとも、散水車を出動させようとも、清掃隊がほうき掃きしようともどこ吹く風。おまけに警官との会話もこの調子なので、私は何度も吹きだしてしまった。

治書商店(雲南省)

治書商店(雲南省)

 警官「そこ立ち止まらないで、固まらないで! もう、みんな早く帰ってマージャンでもやって」
 おじいちゃん「わしらはハエか。なぜ追っ払う」
 おばあちゃん「おまわりさん、今日のこれ何ですか。笛吹きコンテスト?」
 そうこうしているうちに道端では知らない者同士、輪をつくって井戸端会議がはじまっている。これもほとんどが60、70代の男性だ。
 「上海の不動産は高すぎる。どうやってマンションを買えというのだ」
 「物価は上がるのに給料はちっとも上がらんしな」
 「だれかさんが解決してくれんからのう」
 グループをいくつか回ってみたが「民主」なんていう言葉は出てこない。どの人も口にするのは生活の悩みばかりだ。車椅子の老人が「このまま独裁がつづくなら我われは死ぬしかない」と叫んだときにはさすがに場が緊迫したが、高齢の身障者相手に何をすることもできず、結局「退場処分」で事なきを得た。
 なんだ、こんなに平和な集会だったのか――と思ったそのときである。ゴオーというどよめきが聞こえた。見ると一人の男性が二人がかりで腕をつかまれ、鉄格子付きの車両に押しこまれている。どよめきから車の発進まで1分弱、ほんの一瞬の出来事だった。その後日本のニュースで知ったのだが、この日、中国人の若者や日本人カメラマンなど少なくとも6人が連行されたそうだ。そういえば日曜なのにスーツを着た鋭い目つきのおじさんがいた。私服が相当いたという話である。
 この「集会」の正体は依然として謎のままである。これから毎週日曜に開かれるというが、これも真偽のほどはわからない。ただ一つ言えることがあるとしたら、ジャスミンの花はしばらく上海の空に浮遊したままだろうな、ということである。

プロフィール

上林 早苗(かんばやし さなえ)
1978年生まれ、奈良出身。
京都外国語大学中国語学科卒業。上海在住11年目。
中国人の夫と姑との3人暮らし。

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