いい人

 パソコン作業中にインターネットが突然中断するというのは大変なストレスを感じるものだ。それが知りたいことにあともう少しでたどり着こうとしているときに限ってブツリと切れるとなると、イライラは極限状態に達する。
 中国に来たばかりの人だと偶然だと思うかもしれないが、これはインターネット接続を規制・遮断する検閲システム「グレート・ファイアーウォール」(防火長城)のせいである。たとえば検索エンジンで「チベット」や「監獄」「人権」など政治的に敏感なキーワードを検索する。すると、最初は「関連の法律・法規と政策により一部の検索結果は表示されません」と注意書きが出現するだけなのだが、これを無視してマークされた単語を立て続けに検索していると、そのうちインターネットの接続そのものが遮断される。つい反射的に「待って、今のはそういう意図じゃないんです」と言い訳の電話をかけたくなるのだが、相手はシステム化された人工知能らしいのでそういうわけにもいかず、とにかく電源を切ってしばらくじっとおとなしくしているほかない。悪いことをしているわけでもないのに、なんだかお仕置きをされた子どもの気分である。
 この数あるNGワードのなかで最近、接続がとりわけ厳しくなっていると思われるのが「劉暁波」だ。今年のノーベル平和賞受賞者にして国家政権転覆扇動罪で服役中である人権活動家。ところが世界的な有名人になったというのに、ニュースもブログも不自然なほどに少ない。詳しく調べてはいけない要注意人物なのである。
 私がこの名を知ったのは彼が起草し、2008年末にネットに流出した「08憲章」がきっかけだった。この憲章の内容がまずスゴい。近代からの中国の体制批判からはじまり、一党独裁の終結、三権分立、民主化の推進、人権改善まで、突っ込まれたくないだろうポイントをことごとく突いており、周りの日本人の間でも「あれ読んだ?」と日本語訳を転送し合うほど話題になった(原文はすぐに検索不能になった)。

路地が入り組む吉祥弄の朝。約70年前、このあたりに日本の特務機関が置かれていた

 今回はその「首謀者」である劉氏の受賞、しかも中国在住中国人として初のノーベル賞である。第一報を聞いたときは一大事だ! と心のなかで火事場の鐘が鳴るようだった。と同時に、ちょうど帰省中だったため、この歴史的瞬間に中国に居合わせなかったことが悔やまれてしかたがなかった。
 ところがである。さぞ話題になっているだろうと思って上海に帰ると、中国人の友人たちはニュースを知らないどころか「劉さんってだれ?」とこちらが逆に質問される具合だった。それもそのはず、中国ではほとんど報道されていないのである。受賞発表直後に外交部が「今回の受賞はノーベル平和賞を冒涜するものだ」と批判した以外に、オフィシャル記事は配信されていないらしく、だからなのか第一報から1カ月が経つ現在、受賞を知っていたとしてもそのルートは外国メディアの配信ニュースだったり、知人の又聞きだったりという人がほとんどだ。しかも、20代から30代を中心とする友人たちは「自分とは関係ない」と大部分が無関心で、「劉氏は英雄だと思うかそれとも犯罪者だと思うか」との質問には全員が「どちらとも思わない」「どうでもいい」と答えた。これはいったいどういうことだろう。情報を阻む「長城」の壁が厚すぎるのか、それとも世代のせいなのか――。首をひねっていると、80後(1980年代生まれ)の友人が解説を付け加えてくれた。
 「政府には政府の立場があって、市民の立場とは違うから。ただし、真実をちゃんと口にして、みんなを連れて自由を求めに行こうとしてくれる劉さんはきっといい人なんだろうなと俺たちも思う」
 劉氏と今どきの若者との距離は私が思っていたよりもずっと遠いらしい。はたして「いい人」のノーベル賞受賞は長城に固く守られた中国にどんな希望をもたらしてくれるのだろうか。正直言って、私にはまだよくわからない。

プロフィール

上林 早苗(かんばやし さなえ)
1978年生まれ、奈良出身。
京都外国語大学中国語学科卒業。上海在住11年目。
中国人の夫と姑との3人暮らし。

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